OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

言葉ってもんが無くなっちまえばいいのに

世の中、色んな人がいて色んな考えをもっている。十人十色っていうものを良しとしてこの世界は回っている。

それを伝える最たる手段として、人間は言葉を発達させた。

今のコミュニケーション手段を考えてみても、会話にチャットにビデオ通話、ラインにメール。どれもこれも言葉を以って人は人に気持ちを伝える。言葉でしか気持ちを仔細に伝える手段を持たない。

だから誰もが言葉を上手く使えるようにならなきゃなんて思うし、言葉を上手く使えるやつはどんどんのし上がっていく。
それこそ、「演説が上手い」なんていう人物は政治的に優れていると思われがちだ。しかし本質は喋りの上手い人間ではなく、政策理念の望ましい人間が政治的に優れていると思われるべきであるのに、だ。吉本芸人の人気投票ならいざしらず、一の言葉に様々な彩りをもたせてやれる人間はそれだけで優れていると思われてしまう。

 

一のことを言葉で伝えるときに選ぶ言葉や言葉の数によってその人の色ってものが出る。
一のことを伝えるときに本当に一のことしか伝えなければぶっきらぼうな印象になっていくし、一を伝えるのに十を伝えるけれど朴訥と話せば実直な印象に、逆にリズミカルに話せば調子が良い印象に。

言葉の選び方と使い方で全く印象が変わることから、言葉の使え方ってのは人間としての営業戦略の最たるものとなり得る。


印象操作としての言葉が人の言葉の表側に出てくる。だがそれ以前として言葉というのは人の考え方を、情報を伝える機能として存在している。そして往々にして、人の考えってのは表に出てくる言葉の奥に潜みがちだ。

言葉で伝わり方がいくらでも操作できてしまう以上、言葉に落とし込んだ時点でそれは自分の考えとは微妙に乖離したものとなってしまうのではないだろうか。.

伝え方に人間性が出るっていうのは当然である。しかし、言葉を通して伝えたいのは人間性ではなく、自分の核となっている考え方や情報なのだ。

自分だってこうやってブログを書く事によって言葉の数や伝え方ってのに長けているように見えるかもしれないが、現実はそうはいかない。というか、こうやってブログを書いている人間の方が日常でも伝え方は下手だ。一を伝えるために十も百も言葉を並べて結局何が言いたいのか分からない。

でも直球ってのは投げられない。それが人間性といわれ、優しさとか狡さとか言われてしまう。伝えたいのは、百の言葉の先のたった一つなのに、伝わるのは大抵そこだけだ。

 

そのうち考え方がビジュアル化されて、余計なコミュニケーションが取っ払われる時代が来るかもしれない。伝え方で守ることも責めることも出来る煩わしさが取っ払われる日が来るかもしれない。

 

言葉で伝える事に長けた人物はこういうことを思わないのだろうか。戦略を楽しむのだろうか。なんとも羨ましいような恐ろしいようななんとも言えない気持ちだ。

 

まだしばらくは言葉に頼ったコミュニケーションに左右される僕たち。言葉で伝える手段を磨くしかない。それか本当の一を見つけてくれる相手を探し続けるしかない。

借りてきた言葉で、自分の中で育ったような、伝え方に則りながら。

 

 

言の葉の庭

言の葉の庭

 

 

 

悪口の正体見たり、枯れ尾花。

本日、昼休み。
同期のKがなにやら熱心にキーボードを叩いていた。普段は不真面目なKが熱心にパソコンに向かっているのが珍しかったので、ちらっと彼のパソコンを覗き見た。画面に映し出されていたのは、仕事の情報ではなくヤフーニュースであった。
こいつ...真面目に仕事をこなしているのかと思えば優雅にネットサーフィンかよ。
僕は「おい」と声をかけて、「なに見てるんだ?」とKに問いかけた。すると彼は無表情のまま「芸能人の悪口をかきこんでるんだよ」と当然かのように答えた。
こいつ...古い...今どきネットニュースに芸能人の悪口を書き込んでストレスを発散するやつがいるのか。
「なにやってんだよwww」と呆れながら会話を打ち切ったが今になって思うと、ネット上でよく見る「なんでもない赤の他人が誰かを叩いて面白がっている」という行為を行っている人間を初めて見た気がした。
 
確かに古今東西、人の悪口を糧に生きてます。という人はいる。それについてはどうも思わない。Kに対しても「ふーんそっか」くらいの感想しか抱かない。
しかし、人は何故なんでもない他人を叩くことをやめないのか。いったいそこにどんな意味があるのか。ちょっと気になったので考えてみようと思う。

まず、そもそもなぜ人は"叩かれる人"と"叩く人"に分かれるのか。
恐らく、世の中の叩かれる人の共通点ってのは何かにおいて突出している人だ。(法を犯している人間や悪目立ちしている人間は除く)
芸能人にしろSNS上での有名人にしろ、注目の的となっている人間が叩かれるターゲットになっている。美人とか面白いとか変なヤツとかそういう人たちだ。人が多く集まっているところには当然それを批判する人間も集まってくるという分かりやすい理論だ。

じゃあなぜ"叩く"のか。突き詰めて考えてみると結論は一つだ。嫉妬。これに尽きるであろう。
特にモノをあれこれ考えて要らぬ心配を溜め込んでしまう思慮深さが裏目に出ている人間が

「俺もちやほやされてぇ...かつそれでいて愛されてぇ...休日課長の犬になりてぇ」 
みたいな欲求を抱えてしまうと、

「けど人間関係や今の生活を壊すようなアグレッシブな行動は無し。人の目があるし...」
となり、建前との板ばさみで苦しみだす。そんな葛藤をもって生活している。
そんな人間を前に、ちやほやされているやつは現れるのだ。彗星のごとく。普段抱えている葛藤を昇華しているヤツを目の前にすると人は当然嫉妬する。

「おいおい、普段俺はこんなに我慢しているのに、お前はなんだ?飛ばし過ぎだろ。スピード違反。ここはテキサスのハイウェイか?」
となる。そして叩く。
しかも一度叩けばさらに泥沼にはまることがある。一度叩いてしまったのだから、自分が同じような事をして注目されるのは自分を裏切る事になる。だからなおさら叩く一辺倒になり抜け出せない。そういうループの中で人は叩く行為を繰り返す。悲しいね、バナージ。

注目される人間ってのはなにも悪い事はしていない。盗んだり傷つけたりはしていない。それでも突出している故に叩かれる。人はこれを有名税とかいうらしい。
皆んなとは違うスピードで走っているからこそ事故に遭う。さらにここは日本なのでスピード制限もかなり厳しい。みな一列になるのが日本の慣わしなのだ。
 
これ以上書くと、同調圧力如何の話になりそうなのでこの辺でやめときます。皆様、スピードの出しすぎにはご注意を。
 

 

 

Brand-new idol SHiT

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制約と誓約〜歌詞作り編〜

自作の歌を突拍子もなく歌う。リズムも歌詞もメロディーもすべて手前で用意してのオリジナルソングを時々歌う。酔っている時なんかは頻繁に歌っているらしい。

これがまぁ楽しかったりする。やったことある人はお分かり頂けるであろう。何が楽しいかって歌詞を即興で出す瞬間だ。この歌詞が思いの外に耽美なフレーズが出たり、思いの通りにクソみたいなフレーズがでたりとその即興性のなかに意外とバラエティがあって面白い。

正直、リズムやメロディーは似たり寄ったりが多いが歌詞作りに関してはそこそこの努力をしている自負がある。そこらのシンガーソングライターの1/10くらいは歌詞のことを考えている。職業サラリーマンとしては中々考えている方ではないだろうか。

なに遊んでんだ、働けという叱責が飛んで来そうではあるがそこは一旦置いておこう。置いておいたついでと言ってはなんだが自分の歌詞作りの秘訣、というほど大層なものではないが、即興歌詞作りにおけるささやかな制約を書いておこうと思う。

 

まず即興の歌であるにしても歌詞ではあるのだから奔放に言いたいことをいってもダメなのである。誰に聞かせようとしていなくても、誰も聞いてくれていなくても歌として口に出すならその装丁は整えておかねばならない。

本はその紙の集まりが一つの物語として綴じられていなければならない。一定のルールで、本の場合糸で綴られてなければそれは落書きの集まりになってしまう。

歌も同様に言葉がある程度の制約、この場合リズムの上に乗ってなければいけないのだ。リズムに乗ってなければそれはただの叫びだ。それはそれでパンクで素敵だが。

とどのつまり、歌詞とは言葉でありながらもリズムに合ってなくてはいけない。詩ではだめだし、小説でもダメだ。

 

俳句、川柳、歌詞、評論、小説、詩、エッセイ、ブログ(日記)。どれも文章として自分を表現する方法である。これらにも勿論それぞれ制約はある。

ここにおける制約は文体にどれだけ規約があるかということだ。

俳句が俳句であるためには、5・7・5でなくてはならないし季語も必要だ。川柳には季語は必要ないがこれまた文字数の制約がある。

歌詞は前述の通り、文字数の制約はないがリズムに合わせなければいけないため自然と縛られていく。

評論はリズムこそ必要ないが、評する対象は必ず必要となる。よって内容は自ずと縛られる。

その他に関しては制約はあんまりないかもしれない。詩は文字数を多すぎることはできないくらいか。小説とエッセイはフィクションと日常の二大散文だ。そしてブログは言わずもがなフリースタイルの極地だ。

こう考えると俳句や川柳に通ずる人は文字数への意識が当たり前だがバリ高い。一文字の負担が圧倒的に大きい。接続詞すら惜しいくらいの文字数で、情景から心情を、心情から情景を表すテクニック。その中で枕詞なんて技術も生まれるんだから驚きを隠せない。

小説やエッセイを書く人もまたすごい。一本ないし複数の軸の上でつらつらと物語を展開していく根気と力量。なんでも表せるからこそ、その人自信の文章力、表現力が試される。恐ろしくて手が出ない。出せない。

 

即興ではあるが歌詞を作っていて思う。縛りや枠組みは自由を奪う代わりに、創意工夫を産む。精査と推敲の機会を与えてくれる。限定された条件の中で考える面白さの虜になる。

程よい縛りがあるからこそ、生き生きとしていられるのかもしれない。

明日からずっと休みって言われて、生き生きできると言われればそうではないかもしれない。制限のない休みはさぞ退屈だろう。

メリとハリだ。光があれば影がある。縛られているからこその自由。真理であろう。

そんなことを文章フリースタイルのブログで書いてみた。

 

HUNTER×HUNTER 35 (ジャンプコミックス)

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繰り返し!!なぞれ!!!

皆様には引っ越し経験はあるだろうか。自分は2回ある。就職時に社員寮へと引っ越したのが1回と、寮から出ていき一人暮らしを始めたので1回。

引っ越した際、とりあえず覚えることと言えば最寄り駅と自宅までの道のりであろう。最初は駅と自宅の点を線で繋ぐだけの2次元の道であるのだが、住み慣れていくと徐々にコンビニやスーパーやご飯屋さんを求めさまよい、結果、平面として地理を捉えていく。見知らぬ土地で道を覚える楽しさというのは結構代え難い幸福感があったりする。

 

幼い頃、自分は同じ本を繰り返し読むのが好きだった。今はそんなに読まないが、当時は暇さえあれば勝手知ったる本を繰り返し楽しんでいた。「きょうりゅう図鑑」や「ギネスブック」なんかが大好きだったように思う。漫画に関してはもっと顕著で、「ワンピース」や「BLEACH」なんかは何ページに何が書いてあるとかまで覚えていたし、「江戸前の旬」という寿司漫画も地味に好きだった。

道を覚えることと何度も同じ本を読むことは似ている。少なくとも、似ていると感じる。同様に、旅先で観光地までいくことは、新書で知識を仕入れることに似ている。この感覚なんとなく分かってくれる方はいるだろうか。

同じ本を何度も読み、文章の流れ、全体の流れを身につかせる。すると、自分でもそのような書き方が出来るように感じるし、やってみたくなる。それは駅から家までの道を何度も辿ってスイスイ歩くのと、とても似ているのだ。

自分の文章は多分、当時読みふけったいくつもの本に由来している。あの頃、何度も太宰治を読んでいたとしたら、自分の文章や知識は飛躍を遂げていたかもしれないし、入水自殺をしていたかもしれない。

自分の体に知識や技術を覚えこませるには、同じことを何度も繰り返すというのが実に単純で最も早いやり方だったりする。急がば回れ、というやつだ。しかし、当座の知識や技術だけが必要な場合は、お手軽な手順書を一度さくっと読むだけで恐らく事足りるだろう。これが同じ本を読むことと新書で知識を仕入れることの違いだ。

 

今もたまに本を買って読むことはする。しかし、どうしても知識を仕入れるだけの読み方となってしまうのが現状だ。これになんだか勿体無さと一抹の寂しさを覚える。youtubeやテレビで新しい刺激を受けることに慣れてしまい、何度も同じ知識をなぞって体で会得するものに対しての感度が低くなってしまっているのだ。

毎日たくさんの刺激を浴びて、嬉しかったり苦しい思いをして、家に帰ったらなんでもない動画をみて、日が暮れていく。それはきっと目的もなく出かけて放浪して帰ってくるだけの外出に過ぎないように思え、やはり勿体無い気がする。繰り返し覚えこませることが一切出来ない寂しさを感じる。

また、スピード感を求められる現代社会において、反復の上でのんびり会得していくことに重きは置かれていない。自分が10往復して覚えた道を、5往復で覚える人がいる。すると、自分の反復はほぼ意味のないものとなってしまうのだ。同じ5往復で終えようとするものの、何一つ覚えられずに物事は次の段階へ...みたいなことが往往にして起こるのがこの社会だ。一回言ったことは覚えなさい、ってのも酷く残酷的な言葉のように感じてくる。

費用対効果は費用のカットに目を向けたくて使われる言葉だが、今こそ効果に目を向けて、効果を出すだけの費用をかけてやりたいなぁと、考えるここ最近だ。

 

 

道

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書いてなんぼの世界ですが

もう10月かぁ。時が進むのは早いなぁ、とかなんとか思いながらも、時節の区切りでなにかをしてみようという気にもならず、だらだらと過ごして早一週間が経とうとしている。

無為に日々が消費されている感覚のなかで、そういえばしばらくブログ書いてないじゃんと思い、ブログを書き始めた午後6時。

ブログを書かないでいる間にも、当然色々なことがある。だから書きたいことは溜まっていくのかと言われれば、意外とそうでもない。いざ書き始めてみて分かったことだが、書かないでいると書きたかったはずのたくさんのことが自分から抜け落ちていくのだ。嬉しかったこと悲しかったこと、全部が抜け落ちていく。穴の開いたバケツのように、感情は簡単に自分から流れていく。

無為に日々が消費されていく感覚とは、この感情の流出から来ているのだと思う。何も無い日々ってのはきっと無くて、なにかあったけどその時の感情を思い出せない日々ってのが連続してあるだけなのだ。

感情の流出を防ぐ為には、その時の感情を表現しなければいけない。文章だったり、会話だったり、音楽だったり、その時の感情を表しているものを表現できれば、それはきっと思い出となり、味のある日々を作っていける。

しかし、現実にはそうも簡単にその時の感情の表現は出来ないってのも当然ある。体力が無かったり、気力が無かったり、日々のしなきゃいけないことで人の元気、やる気の余剰分ってのは目減りしていく。

そうしたいくつかの力の余剰分を使って、人は能動を貪り、趣味に浸る。そうして日々の感情を表現していく。日々に彩りをつけていく。

仕事を上手く回したいなと思う日々である。社会に命じられるやらなきゃいけない事、仕事ってのは大抵粛々と回る。粛々と回るってことは、個人の力の余剰を殆ど許さない。だからこそ仕事を上手く回すってことは、その力をどれだけ余剰に回せるか、温存出来るかってことにかかってくる。これが出来ないとライフはワークのお疲れを癒すためだけの物に成り下がる。だからこそのライフワークバランス。仕事と趣味の分断なのだろう。

感情の表現を出来る方法がいくつかあるだけでも良かったかな、とも思う。会話や音でそれを表現できれば、もっと楽しかったであろう。

 

しかし、書いてみると意外と楽しいもんだ。書かない生活に慣れると書いていた頃には間違いなく書いていたアレコレすら書く気力がなくなっていく。恐ろしいことだ。というか、昔は2日に1回書いてたのが逆に恐ろしいが。それでも無為な日々を送らないように、これからもちょくちょく書いていこうと思う。

 

 

楽しもう

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鼻くその話

鼻をほじるのが好きだった。

鼻くそはほこりを吸い込むたびに生成されるらしい。鼻くそが鼻の粘膜を塞いでいるときにそれを取り除く瞬間の清涼感といったらない。ミンティアスーパーミントを大量に摂取した時の感覚に酷似している。どことなく風が吹きぬけ、肌をすべっていくような感覚を残す。と、錯覚するほどだ。要はやみつきになる。

この癖は幼いころからあった。まだ物心ついていない時は人目を憚らずほじることもあったらしい。自我が芽生え羞恥心が生まれてからは人目を憚り、周りに誰もいないことを確認してからほじるという可愛げのある行動をとっていたものだ。

やはり幼少のころから、鼻くそを取り除いたときのその爽快感を目的にしてほじっていた。取り除かれた後の鼻腔で新しい空気を吸い込む。その瞬間の感動といったらなかった。世界にはこんなに美味しい空気があるのか!鮮烈だった。

修学旅行の写真かなにかで鼻ほじプライベートタイムを全校規模で晒されたこともあった。自分はどこ吹く風であったが、何よりも親が悲しんだ。

その小中学生時代である。その期間、自分はよく風邪をひいていた。年4,5回だろうか。今思うと休むほどではないが体調を崩すことはままあった。体は大きいのに、体は弱いというのが非常に悔しかった思い出がある。

ここで鼻くその話と繋がる。満を持して。その体調不良の原因は鼻ほじりにあったと最近マジで思っている。

鼻の穴とは粘膜である。喉にウィルスが付着したら風邪をひく。これは自明の理だ。ならば、鼻の粘膜はどうか。鼻の粘膜は触れられる粘膜だ。泥のついた手。菌のついた手。これらで鼻をほじることは菌の進入を快く受け入れているようなものだ。完全に風邪待ったなし。

自分が快感を求めて行っていた行為が、他方風邪を引き寄せていた。恐ろしい事実だが、これもまた世の必定なのかもしれない。鼻をほじる行為は勿論褒められた行為ではない。それを戒めるための神の罰か、悪魔の悪戯か。なんにせよ衛生状態は気にしたほうが良いのだろう。

今、自分は大人になった。大人になったことで、分別と知識がつき鼻ほじタイムをコントロールできるようになった。相変わらず鼻をほじったあとの爽快感は忘れられないが、TPOと衛生状態を加味して鼻ほじタイムを設けている。そうすることで風邪をひく回数が減ったように感じる。粘膜が守られている感じがする。

本当はこんな恥ずかしい話をネットというパブリックな場所でするべきではないとは分かっている。しかしこの仮説を思い当たった瞬間、書かずにはいられなかった。晴天の霹靂。しかし見返してみるとやはり恥ずかしい。穴があったら入りたい。

 

穴があったら挿入りたい (ジュネットコミックス ピアスシリーズ)

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柔道少年回顧談

5歳から18歳まで柔道の道場に通っていた。約13年間である。良い事も嫌な事もあった。今回はその中でも特に嫌だったことを思い出したので書こうと思う。

 

スポーツの習い事をしていて何が一番嫌って、練習場所へ行く道中である。移動をしながら、あーやりたくないという思いを悶々と考え続けるのが特に嫌だった。行ってしまえばあとはもうやるしかない。練習内容を体に覚えこませた後はもう作業みたいなもんである。気づけば時間が過ぎている。どうしても行きの時間が永遠のような生ぬるい地獄に感じていた。

特にそれが顕著だったのは幼少期である。

6歳だか7歳の小学校にあがったばかりの頃はそれを強く感じていた。今思えば小賢しいガキだった。子どもなら子どもらしく練習を遊びと思って楽しくはしゃいでおけば良いのだ。それが許される期間が幼少期だ。自分の同年代にも練習を楽しんで飛んで跳ねてをする子もいた。むしろ子どもにとっては我がままに体を動かせるユートピアのようなものだ。そうすればそうするほど評価も得られたであろう。

しかし、自分はそうしなかった。子どもながら、同じ子どもがはしゃいでる姿に引いていた。何故そこまで脳のネジを吹っ飛ばせるのか。自らカオスを醸造し、そのカオスに飛び込んでいくような真似はどうしてもできなかった。場に慣れようと飛び込んでみるもののやはり何か違う。そんなサイクルを繰り返していた。ほんとに小賢しい。お酒を飲んでカオスの沼に積極的に落ちていく今のほうが単純明快な気さえしてくる。

 

練習が嫌ならばその道中も凄惨たる様である。天竺に行く道中に道場がそびえていたなら、即刻天竺到達を諦める。斉天大聖?知ったこっちゃない。といった調子だ。

当時はバスで道場に向かっていたのだが、バスに乗ったふりをして練習が終わる時間まで隠れて過ごそうとか思っていた。しかし、その作戦もあえなく親に見つかり車で送り届けられることもしばしばであった。

ピカチュウの生物分類を研究しなくちゃいけないから帰って!」

とどこまでも知的なのかアホなのか分からない言い訳をかましたことを今でも覚えている。そんな嫌がる困ったちゃんにも道場の門戸は開かれていたのだから、今となっては感謝感謝である。

 

今日、街中で柔道着を着てはしゃぐ子ども達を見てそれを思い出した。この子達はきっとあのカオスな生存競争を生き残っていけるだろう。どうか淘汰されませんように。そんなことを思いながらその子ども達を横目に見送った。

 

この思い出は自分が社会という柔道の道場をも凌ぐカオスの沼に自ら率先して足を踏み入れる16年ほど前の出来事のことであった。

 

 

 

少年時代

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