OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

拝啓、セックス至上主義おじさんへ

時々、飲み屋に行く。

会社の人と飲みに行ったりゲイの人が集まるバーに行ったり、受動的か能動的かの違いはあれどお酒を飲む場に時々行かせてもらう。そして、そこに集う人々と話す。おっさん達である。会社の上司なんて大概おっさんだし、ゲイバーに集う人も大概おっさんだ。ちなみに、若いホモはカフェで歓談するらしい。なんとも優美。おっさん全てに大概言える事だが、ほぼほぼ下ネタしか話さない。どっちかというと、会社の上司の方が顕著だ。ゲイは意外と大人しい。実践主義だからだろうか。プラグマティズムみを感じる。

その下ネタも男子中学生みたいなことしか話さない。清々しいほどに思春期の男子中学生ど真ん中なことを話す。それも三十四十のおじさんが話すそれは男女のそれこれを知り尽くした上でのアンダーグラウンドな話である。中学生が話していたら、温かい目で見れるものだがおじさんのそれは生温かいなんてものじゃない。ぐずぐずである。熟れすぎている。

一回り以上に下の自分はニコニコしながら合いの手を打つ役なのだが、たまに話の主役に引き出される。

「俺が若いころはセックスのことしか考えてなかった」「どうやって女の子とヤラシイことするかが頭の10割を占めていた」「草食男子はだめだよー」「そんなのもはや草だよ、草」

辛辣なお言葉を数多く頂く。

これを受けて、そうかもっと性に生き性に生かされるべきなのかと考える。なんとなくそう悟り女、自分の場合男、の尻しか追わない人生を逡巡してみる。しかし、これまでの人生とのギャップがその人生を容易に想像させてくれない。なにしろただの草である。ただの草が草を食む草食度物を飛び越えて肉食になれというのも無理な話である。生命の進化は悠久の時を経て…なーんてことを考えた末に結局草になってそこに根を下ろす。

時代だろうか。若者の~離れが叫ばれる世の中だが三大欲求である性欲も離れていっているのだろうか。ありえるのか。というか、おじさん達はそもそもそんなに性に正直だったのだろうか。脚色疑惑がついて離れない。もっと色々考えろと言いたくなる。

そんなセックス至上主義の人たちからみれば自分はなんとも情けない生き物に見えるようである。本能で生きろ、とよく言われる。言うとおりだな、と思う。セックスに明け暮れて過ごせればそれも良い。大江戸線よりも遥か地下に流れる人間の共通認識に正直に生きれればそれなりに楽しいことだろう。

しかし、それは難しい。なぜなら23年間そういう生き方を肯定していないからだ。これまでの生き方が強く根を張っている。適材適所。そういうのはモテるやつに言ってくれ。なーんて愚痴ってみる飲み会帰りの午前3時。

 

手紙 ?拝啓 十五の君へ?

手紙 ?拝啓 十五の君へ?