OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

夏、少年、冷やし中華、出会い、そして...

冷やし中華というものをご存知だろうか。

勿論ご存知だろう。ご存知ない人がいたら是非食べてみてほしい。美味しいから。

夏真っ盛りな時分であるから、どこの中華屋でも見かけることだろう。冷やし中華始めましたという文字は、最早夏の季語として認識されている。

そんな冷やし中華。今回は自分が冷やし中華に初めて出会った時の話をしようと思う。

当時7歳。小学1年生の頃である。自分はおかわり大王としてその名をクラス内外に響かせていた。

あらゆる物を分け隔てなく平らげ、あらゆるおかわりの可能性があるものをおかわりしていた。故におかわり大王。なんとも小学生らしいチャーミングなあだ名である。

配膳時に余ったものを美味しく頂き、休んだ子の給食に対してもおかわりの表明を果敢に挑戦していた。近くのたっくんの残したかぼちゃの煮つけも食べたし、みかんゼリーも食べたし、余っていれば牛乳だって率先して飲んだ。アイデンティティという言葉を知る遥か前から、自分のアイデンティティは確立されていた。

ある夏の日である。数週間先の給食の献立に冷やし中華なるものが書いてあった。そこでおかわり大王なる少年と冷やし中華は初めての邂逅を果たす。少年は不思議に思う。

冷やし...中華...?

少年はその食べ物の想像が全くできなかった。中華って何だ。冷やした中華があるなら、冷やしてない中華があるっていうのか。中華料理であろうという当たりは付けられるが、中華料理に中華というものがあるのか。諸々考えてみて、冷やし中華というものの全容は全くつかめなかった。

未知は単純に恐怖に繋がる。中身が見えない箱に手を突っ込めと言われたら、当然恐怖が湧く。それと同じように、中身を知れない給食の品目に少年は恐怖した。

しかし恐怖よりも先行したのは、不安である。果して、自分はおかわりできるのだろうか。未知の恐怖よりも自己を確立しているアイデンティティに対して不安を抱いた。毎日毎日おかわりすることで自我を保ち続けた少年が、突然おかわりできるか分からないものに出会う。当然自我の崩壊が起こる。アイデンティティの拡散が起こる。

しかし、無常にも冷やし中華の給食の日は近づく。Xデーが近づく度に胸は不安で逼迫される。

少年は自己防衛の為に必死で自己の確立を保ち続ける。不安はおくびにも見せないように立ち回る。何せ大王なのだ。あのべジータですら王子であるし、ピラミッドを作ったのでさえクフ王だ。大王とはその上に君臨するものである。世界広しと言えど大王は数少ない。アレキサンドロス大王と同位の存在。1年1組給食界のアレキサンドロス。プライドがあり、弱音なぞ吐けようもない。

しかし不安も拭えようもない。迎えた冷やし中華の日。不安が積み重なり、ついに親に弱音を吐いてしまった。

「今日は冷やし中華が給食に出て、おかわりできるか分かんないから学校休む。」

叱る母親。

「んなアホなことで休んでどうすんの!!」

正論だ。しかし、正論の刃は鋭い刃物のような切れ味で体ではなく心を切りつける。自分にはおかわりしかないのだ。おかわりするから自分なのであり、おかわりしないのは自分ではない。おかわりどころか残してしまう可能性すらある。その時、自分は心が耐えられる自信がなかった。

しかし、乱暴にも母親に家から送り出され学校に向かう。午前の記憶はほとんどない。不安と焦燥。それが全てだったのであろう。

そして給食の時間。冷やし中華と対面した。

 

結論から言うとおかわりした。

恐る恐る口に運んで咀嚼する。それだけで冷やし中華を理解した。冷やしたラーメンだ。冷やした中華麺。故に冷やし中華なのだ。

案ずるよりも生むが易しとは正にこのことだ。あれほどまでにビビッていた冷やし中華の味が、震える舌に思いの外優しくフィットした。あの感触は一生忘れられないであろう。

これを踏まえると食わず嫌いほど愚かなことはないと思う。料理としてある以上、それは誰かのための料理であるし、誰かが作った料理なのである。食べられるために料理されるのだからそれを無下にすることは決して出来ない。

夏の日照りに過去の教訓を思い出した。

 

あなたに冷やし中華

あなたに冷やし中華