OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

好きなタイプは?という四色定理問題

「どんな人が好きなの?」

こんな質問を飲みに行くたびによく貰う。ある程度簡潔に、このくらいの人がいいかなとはその場で言うことは出来ているのだがいつもそれは自分の真意ではない気がする。言ってしまえばホモとして生きている自分としては、大抵の男性が好みだ。

しかし、やはりクリーンヒットといわれる人は理想の中では存在する。しかしそれを、飲みの席で滔々と語ってもそれは独演会になってしまうし、軽く答えようと適当に空を掴むような話をしてみてあらぬ誤解を与えても面白くない。これはえらく難しい問題である。そう人類が抱えるべき難問なのだ。

どんな人が好きなのか、正直言って自分が聞きたい。果たして自分という人間はどんな人が好きなのか。深層心理においてどんな人を求めているのか。最初、ホモになったきっかけは嵐の櫻井翔だった。しかし、出会ったり別れたり、別れたと思えば出会ううちに、自分が考えていた好みのタイプは広がり、かつその像の輪郭はどんどんボヤけてきている。

そりゃあ大まかな好きな顔とか合う性格はあるんだろう。各々あるんだろう。しかし、当該質問に答える際に、「こんな顔が好きでこんな性格が好き。」みたいな話をする度に果たして自分は誰の話をしているのか分からなくなってくる。櫻井翔とも違う理想像の中での好みの人を自分の中で創り上げているが、一体それは現実にいる人なのか、はたまたいた人なのか。ぼんやりした像の中での実像が分からなすぎて恐怖すら覚える。

「こんな顔でこんな性格でこんなスタイルでこんな目でこんな鼻でこんな口で...」という理想像は、「焼き魚の香ばしさとシチューのコク、そこにゲルニカのようなメッセージ性にPerfumeのようなポップさを」と言っているようなものだろう。とっ散らかりが過ぎている。

好みの条件を羅列するタイプ論では、きっと好きなものは語れない。ありもしない虚像を打ち立てるのみで現実にいつまでたっても即さない。いわば異種格闘技戦が繰り広げられるのみなのだ。

こういうときにこれが好きだ!っていえる人は強い。豊かな人生経験の中で自分を持っている人だ。きっとそれに邁進できるし、迷いはない。反省はあっても後悔はない。そういう確かな自分像を求めていけば、きっと相応しい理想像も見つかるのだろう。

じゃあ、確かなタイプがない人はどうすればいいの?って話だ。そういう自分みたいな人は、何が好きかをタイプで類推、又はカテゴリー分けしていくのではなく青天の霹靂とか神の啓示に委ねちゃうのがいいんじゃないだろうか。何者かがこよった糸に絡まって、出会った人がタイプでした。それでいいんじゃないだろうか。それはそれでとても素敵だと思う。

しかしこんなことはやっぱ飲み屋で軽く言えないなと考えを固くしながら、上記結論をこの難問の解とする。

 

容疑者Xの献身

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