OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

ゲームの感動をリメンバーフォーミー

寝ても覚めてもゲームのことを考えていた頃がある。

あれは小中学生の頃だったろうか。学校に行っても帰ったらゲームをあそこまで進めようとか、柔道の練習に行っても終わったら友達とあのゲームをやろうとか常に考えていた。本当に寝ても覚めてもだった。一つのゲームの攻略本を何種類も買って、多角的に攻略していこうとしていた。

当時はネットで情報を集めるという脳がなかったため、ファミ通が出版していた、ぶん回したら人1人は余裕で殴り殺せそうな厚さの攻略本を頼りに遊んだ。大好きだったキングダムハーツの攻略本は付箋を挟みすぎて、本の上部が森林バイオームと化していた。

我が家にはゲームの制限時間は設けられていなかったが、ほぼ毎日柔道の練習があったため、限られた時間でどのようにゲームを進めるかシミュレーションしながらその限られた時間に全力を注いでいた。

そう、全力だったのだ。一つのRPGを何度も何度もなぞってマルチエンディングをすべて見るような。育成シュミレーションであらゆるモンスターを育成して進化させるような。ネットに繋がないであえて攻略本を買って、製作秘話を噛り付きながら読むような。そんな全力さが当時はあり、それに応じた感動があった。

最近はゲームに対してそこまでの全力と感動がないなとふと思った。仕事しながらも帰ったらゲームをやれると思ってほくそ笑んだり、休日の前の日には明日は何をどこまで進めようかとか考えてワクワクしながら眠りに落ちる。そんなことがいつのまにか思わなくなった。

ゲームは相変わらずやっている。一つのゲームをしゃぶりつくす姿勢は変わってないのだが、どうしても分からないところはネットを見ちゃうし、幾星霜あるゲーム体験から似通った体験を引っ張り出してなんとなく類似性を探してしまう。どれだけ昔のように時間をかけて遊んでも、昔の感動とは何かが違う気がしてしまう。子どもの頃に遊んだゲームの内容はいくらでも語れるのに、大人になってから遊んだゲームはどこか忘れがちだ。

人はそれを聞くと、子どもの頃は感受性が強いからとか、他に夢中になるものがあるからだとか、大人になったからだとか口々にそれらしい理由を言ってくれる。しかし、昔のゲームで得た感動体験をこの先、同じようにゲームで味わえないかと思うとどうしても切なくなってしまう。やはりゲームで得た感動は同じようにゲームで得たい、同じようにゲームで盛り上がりたい。大人になることで失うものはたくさんあると思うけれど、ゲームの感動はどうしても残しておきたい。懐古の虫と言われようが。

大人になってちょっと現実を見すぎていたかもしれない。子どもの頃の全力は、現実と空想を両目で捉えられていたからからこそであろう。いつの間にか空想を捉える片目を閉じて、閉じたことも忘れていた。もう一度目を開けて、空想世界に思いを馳せてみようと思う。

というわけで、キングダムハーツ3楽しみです。

 

キングダム ハーツIII - PS4

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