深いところで会いましょう。
「空っぽのコミュニケーション」という言葉がある。挨拶に代表される、具体的な内容を伴わない、若しくは限りなく少ないコミュニケーションのことである。
空っぽ、と聞くと全くもって無駄なことのように感じるが実際はそうではないことが多いらしい。むしろ空っぽであるからこそ円滑に人間関係を促進しているとのことだ。そういえば飲み会とかで繰り広げられる極めて無駄な会話のほうが人との心の距離は短くなっている気がする。あれこそが「空っぽのコミュニケーション」なのだろう。
確かに腹を割って話す事は恐怖を伴う。真に迫ることで否定される恐怖に逼迫される。
逆に何の本質にも触れない言葉の安心感はすごい。腹を割って話す事の対義語にも相応しい「空っぽのコミュニケーション」。自分も大好きだ。むしろ内容の伴う話より得意な意識がある。中身を伴わないコミュニケーションの方が圧倒的に滑らかに喋ることが出来るであろう。
人間は言葉によってコミュニケーションを図る。人との距離を測る。言葉によって喜び傷つく。愛や恋を語るも言葉、敵意や憎悪を語るも言葉だ。言葉、突き詰めると言語がなければ人は人足り得ないのかもしれない。
だから腹を割るのも当然言葉を遣う。しかし、空っぽのコミュニケーションが心地よくてそれに頼っている間は、腹の底なんてマリアナ海溝よりも深くに眠ってしまう。
常に腹を割って話す事は難しいが、自分たちは空っぽのコミュニケーションに頼りすぎている気がする。上辺の言葉を遣い過ぎている気がする。だから、ときたまに相手の腹の深いところに潜ろうとすると、水圧にやられて舌は重くなる。息が苦しくなる。
相手の腹の底を探りたいときに限って言葉が出てこない。普段の空っぽに慣らされているせいだろうか。もしかして相手のことなんてなにも考えていなかったんじゃないだろうか。なんていうかさぁ...難しいよね。アレだよね、アレ...ほら、アレ...こんな風に言葉が出て来ないことは多々ある。
LINEをなんて返そうか迷っているような感覚。親指が空中浮遊を続けているようなあの感覚。間を埋めるだけの言葉が山積して相手の、更には自分の心の底なんて見えやしない。哀しきかな。
Mr.childrenの「箒星」という歌にこんな歌詞がある。
最近ストレッチを怠っているからかなぁ
上手く開けないんだ 心が。ぎこちなくて
慣れない筋肉が上手く使えないように、閉ざされっぱなしの扉は中々に開かない。慣れない言葉もこれと同様だろう。
上辺の言葉を喋るのは、ここ最近随分慣れた。だからこそ、慣れすぎたからこそもう少し深く潜ってみなきゃいけないだろう。最初は苦しいけど、きっとそれにも慣れてくれると信じてる。
自分が知らない相手を知りたい。言葉を交わすことで気づくあなたに出会いたい。