今日はもう寝よう
一日と一日が繋がっていると気づいた時はいつ頃だったろうか。
小学生低学年頃、夜21時には既に眠りについている健康優良児だった。21時に寝て起きた時には既に新しい日が始まっていて、昨日の体調とか昨日の友達とかみんながみんな新しいものとして目に映っていた。
一日は21時に終わり、朝7時にもう一度一日が始まっていると信じて疑わなかった。
けどいつだったろうか、一日は繋がっていることを覚えた。0時という概念を覚えた。
寝ようが寝まいが明日はやってきて、そこにはなんの違いもない。
昨日の続きとして今日があり、今日の続きとして明日がある。明日頑張ろうたって明日の自分は今の自分でしかない。
けど、やっぱりどこかで仕切らなくちゃいけない。
働いて家帰って寝て、働いて酒飲んで寝て、働いて遊んではまた気を失ったかのように寝る。
そんなことを繰り返していると、一日の感覚が限りなく薄くなってしまう。暦の上では一日を過ごしていても、感覚的には一日が曖昧になってしまう。
一日が地続きになっていると知っているからこそ、何もしないで過ぎていく一日を能動的に終わらせて始めさせてあげなくちゃいけない。
繰り返しの毎日の中でも、昨日と同じ今日を作ってしまったらそれはきっと勿体無いことなのだ。
一日を区切って自分の中で自覚していかないと、昨日と今日と明日が攪拌されたドロドロスムージーが出来上がる。
せっかくの今日なのだ。ドロドロに溶かしてしまっては勿体無い。
今日を今日として刻むために今日を区切ってやらねば。今日こんな事があった。明日はこんな事がある。
繰り返しの日々の中でもそれに必死に抵抗して、今日と明日を創り出さなくちゃいけない気がする。
明日への扉だ、明日へのマーチだ。明日への歌を高らかに歌っていきたい。
明日の自分が、今日ご飯食べて風呂入って歯磨いて寝た後のただの延長線上の自分だとしてもきっと明日は今日より楽しいよ、なーんて思いながら眠りにつけたらちょっとは明日が変わってくる気もするだろう。
明日が来ることが怖くても明日は当然のように来る。
だから迎えてあげなくては。愛しい人を抱きかかえるようにそっと迎えてやろう。だから今日のところはおやすみなさいを言おう。
おやすみなさい。