オーバーラン ザ サティスファクション
食べ過ぎた。これは明らかに食べ過ぎている。苦しい。何故こんなことになったのか。時は1時間前に遡る。
その時、自分はいつもの調子でご飯の炊き上がりを待っていた。毎度毎度の1合炊きだ。お茶碗1杯半。毎日の夕食のご飯の量だ。しかし今日、待ちに待った炊飯器を開けてみたらなぜかご飯の量が多い。これは倍…そうだ、2合はある。そこで気づく。気づかぬうちに2合炊いてしまったのだと。どうしよう…冷凍しようか。しかし、冷凍ご飯は食感があまり好きではない。……食べるか。
過ぎたるは及ばざるが如し。チキンレースでもブラックジャックでも、規定の位置や数を過ぎてしまったらそれはゼロと一緒だ。行き過ぎは出発していなのと同義である。
こうやって格言になっているほどだ。ゲームの世界だけにしか落とし込めないような概念では決してない。日々の生活でもそれは如実に感じられるであろう。
というわけで満腹だ。普段の1合でも結構お腹にくるのに倍の量など基準値を遥かに超えるものだった。苦しい。胃袋が自分の形をまざまざと主張してくる。
胃袋「こんなに食べ物を詰め込んだよ。ほらえらいでしょう?よくやったでしょう?いまから消化するから待っててね。」
待てません。辛いです。どういう体勢がいいのかも分からない。寝ても起きても、正しても猫背でも、胃袋が常に気になる。思いついて腹筋してみても、うんともすんとも言わない。むしろなんとも言えないアレが込み上げてくる。要はアレだ、酸っぱい。
これだったら空腹の方がマシじゃなかったんだろうか。飽食の時代だ。我慢ならない空腹が襲ってきた時に当座を凌げる分だけ食べればいい。我慢ならなくなった時に対応できないなんてのは、この時代まずないだろう。
口は入れるところだし、お尻は出すところだ。基本的にどちらも一方通行。その逆を行うにはそれなりの苦痛が伴う。満腹はただそれを過ぎ去ることを待つしか我々は術を持たないのだ。それが嫌なら食べ過ぎるなってことだ。分かっている。分かっているはずなんだ。
思えば、寝すぎの後悔も似たようなものがある。寝すぎで時間を無駄にしてしまった後悔は食べ過ぎの後悔に大いに通ずる。寝る、食べるという行為は幸せだがそれが過ぎれば後悔に成り果てる。
そう考えるとどうだ。人間の満足スポットの実に狭きことには驚きを隠せない。
満腹中枢がアラートを鳴らした瞬間に食べるのをやめたとしてもそれは若干オーバーランだ。気の向くままに睡眠をしたとしたら大方の人間は確実にオーバーランするだろう。頭の満足と体の満足はそれぞれ若干ずれている。この世に生を受けて22年。未だにこれを制御できずにいる。頭でちょっと足りないくらいが体の満足だったりする。腹八分目ってことですよね。分かってます、分かってます。
一瞬で通過してしまう満足ポイントに美しく縦列駐車したい。それこそが最上の満足というものだろう。満足したい。満腹じゃなくて満足したい。八分目こそが満足なのだ。
こんなことを書いている間に消化してくれるかと思ったが、今回はそうはいかないらしい。この満腹は確実に翌日の消化不良を導き出すだろう。eiπ+1と言ったら0が導き出されるみたいなもんだ。答えの出ている袋小路に飛び込むほど愚かなことはないが、男には負けると分かっていても戦わなければならない勝負がある。ゴリ押ししなきゃいけない意見がある。もたれなきゃいけない胃もきっとあるだろう。
2合を食べきれた微かな満足と食べ過ぎた大きな後悔、あとは胃の食物を明日に持ち越してとりあえず寝ます。