OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想 ネタバレあり

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』見てきました。ネタバレありの感想を書いていきたいと思いますので、ご注意ください。映画をまだ見ていない人は絶対にネタバレだけは見んといてくださいよ!

 

そもそも自分がエヴァンゲリオンに出会ったのは、破の公開当時くらいで中学生くらいのころだと思う。クラスの小川君がおススメしてきてくれたのがアニメ版の方のエヴァンゲリオンだった。小川君はエヴァンゲリオンの他にもPSPに入れたとらドラ!涼宮ハルヒの憂鬱のアニメも見せてくれて、いわゆる当時のサブカルチャー文化を俺に教えてくれた人であった。俺はエヴァンゲリオンの意味わからん用語たっぷりの「訳分からなさ」にハマり、アニメ版、旧劇、新劇を夜中、布団に包まりながら順々に見ていった。俺がエヴァンゲリオンの訳分からなさから来る中二病感にハマったのに対し、小川君はエヴァンゲリオンを社会に居場所が見つけられない思春期のもがきの表現としてエヴァンゲリオンにハマっていた。小川君の中でエヴァンゲリオンとは普通のロボット物とは違う(そもそもロボットではない)、繊細で神経質な世界観を落とし込んだ革新的なアニメだったのだ。


『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」(以下シンエヴァ)を見た後に真っ先に思ったのはそんな小川君のことだった。シンエヴァは小川君がハマったエヴァとは別物になっていたのだ。言わば保守的。「大人になることとは」「けじめをつけろ」「責任はとらなければならない」「退屈な毎日の繰り返しは幸せなこと」「子どものままではいられない」「仕事の意味」「挨拶は大切」そんな言ってしまえば旧時代的な価値観の肯定がシンエヴァには散りばめられていた。


しかしそれにはちゃんとした意味があり、作品自体の面白さも相当なものだった。俺がハマった意味わからん単語、訳分からない"エヴァっぽさ"はそのままだったし、それなのに物語の大筋はなんとなく把握できるのは旧劇同様素晴らしい構成だった。物語後半の戦闘のカタルシス、ここまで広げた風呂敷の畳み方の鮮やかさは本当にすごかった。それら全体の感想を書いたうえで、映画を前半後半に分けて感想を書いていく。

 

 

前半(第3村)


この前半の第3村での描写がいわゆる日常パートであり、シンジくんの立ち直りを丁寧に描いている。Qで精神をボコボコにされたシンジ君が拗ねてる間に綾波は初めてのドキドキ農業体験をしたり、アスカはケンスケ(以下ケンケン)と一つ屋根の下で暮らしたりしている。

Qの絶望的展開から一転、農本主義を基にニアサーを乗り越えてひたむきに生きるトウジやケンケンの姿、NERVや学校以外の人間との関り、また自分を突き放していたと思っていたミサトさんたちが実はシンジ君に対して優しさを持っていたことを少しずつ知り、長い時間をかけて(およそ1時間くらい)少しずつ少しずつシンジ君は立ち直っていく。エヴァに乗る以外の選択肢(村で生きていく)を初めて提示されてなお改めてエヴァに乗るという決断を下したシンジのカッコよさには痺れた。


この第3村の状況、大きな災害を乗り越えてひたむきに生きる人々の姿は震災後やコロナ禍を乗り越えようとする現実の我々の姿と重なっているようにも思えた。前述した「退屈な毎日の繰り返し」の肯定は、こういった現実での出来事を受けて庵野監督が至った結論とも言えなくもない。この第3村の描写は「大人になった」庵野監督が「けじめとして」創ったエヴァを象徴する場面と言ってもいいかもしれない。


この第3村でトウジやケンケン、委員長のヒカリが実は生きていることが明かされるのだが何よりもケンケンの成長具合が凄い。この作品では不在だった父性を一身に担う男がまさかのケンケンなのである。本来、父性を出すべきゲンドウは14年間で目からビーム出るようになっただけなのに。シンエヴァのもう一人の主人公はケンケンと言ってもいいかもしれない。そりゃアスカも心のよりどころにしますわなと納得させてくれるケンケンの成長具合を噛み締めていきたい。

 

後半
旧劇場版やアニメ版で既視感のあるシーンをリファインしながらも、新劇ではそれを少しづつ変えて物語をずらしていくのが「破」でもよく見られる手法だった。今回のシンエヴァでもそれは多く見られて、巨大綾波や腹部を撃たれるミサトさん、終劇の浜辺など旧劇を知っている人間からすればそれぞれのシーンがシンエヴァで全く別物になっていくのを感じ取れる演出だった。


巨大綾波に対してミドリが「変!」と叫ぶシーンなんかはそれの最たるもので、ミドリに言われて初めて「確かに巨大綾波って変だな」と思った。旧劇においては巨大綾波に触れたマヤが発狂するなどとてもシリアスなものと捉えられていたが、今回の巨大綾波は「変!」なのである。人によっては神秘性やトラウマを覚えるような造形として認知されていた巨大綾波もシンエヴァでは別の文脈として再構成されていると感じた。


ミサトさんの活躍もめちゃくちゃ良かった。最後の髪をかきあげるシーンからの展開は思わず泣いてしまった。「Q」でのディスコミュニケーション具合を散々揶揄されてきたミサトさんだが、そのフォローも出来る限りされていたし、そんなことが吹っ飛ぶくらい最後のシーンがよかった。なによりミサトさんが撃たれた後にシンジ君が「リョウジ君に会ったよ」と言うシーンも旧劇のただ狼狽えるだけだったシンジ君との違い、成長を感じられてこれまた泣きそうになった。そしてそんなシンジ君を守るミサトさんの姿は完全に母。上司と部下と言う関係を超えてミサトさんには母性が目覚めていた。シンエヴァにおける母性はミサトさんが一身に担ってました。(ユイもちゃんと母親していたが)


シンジとアスカが最後に言葉を交わす浜辺のシーンも言わずもがなである。アスカの首を絞め「気持ち悪い。」と言い放たれ終劇を迎えた旧劇とは異なり、シンジとアスカ、二人きりの浜辺で「昔はアンタのことが好きだったんだと思う。」の返事として「僕も好きだった。」とシンジ君が返す。昔好きだった人のことを素直に好きだったと認めれる大人にアスカとシンジは成長したと分かるシーンであった。

 

これら「大人」になった登場人物たちの演出はシンエヴァの一番の魅力と言っていいだろう。それは庵野監督自身の話でもあるように思う。旧劇が「子ども」だった庵野監督の心情を映し出した創作物だとすればシンエヴァは「大人」になった庵野監督の心情を映し出した創作物なのである。作品を通して自己の価値観を映し出す、やってることは変わらないがやってる本人は大きく変わった。それこそが旧劇とシンエヴァの違いであり、この作品の意味であり、監督自身のけじめなのではないかと思えてならないのだ。

映画の感想を語っていて作り手にフォーカスするのはあまり好きではない語り口なのだが、エヴァンゲリオンという作品は庵野監督自身のパーソナルな部分が色濃く出ているので語らずを得なかった。


物語終盤、虚構と現実を混ぜて補完の中心となったシンジ君は無双のごとく登場人物たちを救っていく。ラストの解釈はエヴァが現実に存在する世界を虚構にしたとかエヴァが虚構として存在する現実の我々の世界をも救っただとか色んな解釈の仕方があると思うがとりあえず言えることは「さようなら、エヴァンゲリオン」なのだろう。アニメ版、旧劇、新劇と経て監督も我々も大人になった。きっと小川君もどこかで大人になってエヴァンゲリオンにさようならをしていることだろう。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』はそんな昔の自分への墓標のような作品として、とても有意義で同時にエンターテイメントとして楽しめる良い映画であった。

 

以下は書ききれなかった感想を箇条書きで書いていきます。
・俺はマリ好きなのでマリエンド大好きです。男も女も乳がデカい方がいいぜ。漫画版はシンジ×アスカらしいのでそのうち読んでみたい。


・ユイが旧劇では完全に狂った母だったのに、今回はシンジの背中を押して救ってくれるのは定番ながら良かった。


・ゲンドウはあんなに喋らなかったのにモノローグでベラベラ喋りだした時は思わず「そんな喋るんだ」って言っちゃった。しかし、ゲンドウの心情は今までほとんど出てこなかったのでやりたかったことの一つなのかもしれない。


・ゲンドウは完全に「まるでダメな男」だった。


・ゲンドウがマイナス宇宙で頑張って量子テレポートしてたのに一瞬でシンジ君に捕らえられたのは笑った。


・専門用語が多すぎる。それも自覚してか来場特典の冊子で自らイジってやがる。オップファータイプってなんやねん。


エヴァンゲリオンをグサグサ刺してくところはソードマスターヤマトの串刺しシーンを思い出した。


・シンクロ率∞はエロ漫画によくあるやつ。


・リツコがゲンドウを躊躇なく打つとこも旧劇との違いで良かった。


・相変わらず加持さんは謎の男だった。しかし、加持さんは謎の男としてのキャラクターが一番しっくりくるからそれでいい。


・葛城パパの元凶感が急に出てきた。


・13号機と初号機の戦闘シーンは庵野監督の趣味全開なのと虚構感の演出としてすごくハマってた。シン・ウルトラマンも早く見たい。


・今回で庵野監督のエヴァンゲリオンは本当に終劇したが、庵野監督以外が作るエヴァンゲリオンっていうのも見てみたい気もする。作るってだけで批判が見えてる地雷だが。さようならはまた会えるようなお呪いらしいので。