OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

交際費ともやし費

つい先日、名古屋でNLGR+というイベントがあった。いわゆる、性的マイノリティーの人たちを対象としたお祭りだ。自分も行った。主に酒を飲むためとケツを揉むためだ。

中々に楽しかった。酒を飲みケツを揉むことで、人生の本懐を見た。デカルトは行動を見ることによって、人間の本質を捉えよと唱えたがまさにその通りである。ケツ揉み万歳である。

 

しかし、資本主義社会の仕組みにより何かを得るためには何かを手放さなければならない。酒とケツを得るために手放したものは、お金である。まぁ、遣った。散財に次ぐ散財。カイジもビックリであろう。

社会人になって2ヶ月弱、出納の管理をつけるべきなのだろうがどうもめんどくさくてつけていない。しかし仮につけるとしたら、先日の出費は"交際費"という勘定になるのだろう。

交際費。なんとも漠然とした名目である。広義で人との付き合いのために支払われる費用。ここまででみると自分の出費に付き合いという要素は感じないが、ちゃんと友人と行っている。広義でちゃんと交際費である。恐らく。きっと。多分。

 

その交際費には糸目をつけない気概をもとうと考えている。それを実践した結果の皺寄せがどこにくるかっていうと、日々の生活費である。

必死である。たまねぎが10円安い場所をさがして東奔西走。もやしは30円だと買わない。19円だと買う。人のケツに1,000円を嬉々として挟む人間が、である。馬鹿らしいと感じるだろうか。いや、感じるだろう。馬鹿らしい。

 

貯金を桶。収入を注がれる水。支出を桶に開いた穴と例えよう。できるだけ無駄な、かつ大きな穴から塞ぎたいと考えるのが普通だ。それが交際費。しかし塞がない。それを塞がず最小のもやしの穴を塞ぐ。滑稽だ。

何故かというと、経験則で学んだからである。交際費の穴から流れ出る水の先には地面があり、そこに水を注ぐと育つ命がある。水の注ぎすぎで腐らせぬよう、乾きすぎで枯れさせないよう注意を払いながら、ほどほどで水をやる。自分は、日々命を育むために交際費を垂れ流す。そうすることで繋がる縁がきっとある。

 

いい感じに締められた。しかし、いかに理由をつけようがケツにお札を挟むことを交際費と認めてくれる人はいないだろう。反省。桶の水を枯らさぬように思慮分別。

 

そして生活はつづく (文春文庫)

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