OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

制約と誓約〜歌詞作り編〜

自作の歌を突拍子もなく歌う。リズムも歌詞もメロディーもすべて手前で用意してのオリジナルソングを時々歌う。酔っている時なんかは頻繁に歌っているらしい。

これがまぁ楽しかったりする。やったことある人はお分かり頂けるであろう。何が楽しいかって歌詞を即興で出す瞬間だ。この歌詞が思いの外に耽美なフレーズが出たり、思いの通りにクソみたいなフレーズがでたりとその即興性のなかに意外とバラエティがあって面白い。

正直、リズムやメロディーは似たり寄ったりが多いが歌詞作りに関してはそこそこの努力をしている自負がある。そこらのシンガーソングライターの1/10くらいは歌詞のことを考えている。職業サラリーマンとしては中々考えている方ではないだろうか。

なに遊んでんだ、働けという叱責が飛んで来そうではあるがそこは一旦置いておこう。置いておいたついでと言ってはなんだが自分の歌詞作りの秘訣、というほど大層なものではないが、即興歌詞作りにおけるささやかな制約を書いておこうと思う。

 

まず即興の歌であるにしても歌詞ではあるのだから奔放に言いたいことをいってもダメなのである。誰に聞かせようとしていなくても、誰も聞いてくれていなくても歌として口に出すならその装丁は整えておかねばならない。

本はその紙の集まりが一つの物語として綴じられていなければならない。一定のルールで、本の場合糸で綴られてなければそれは落書きの集まりになってしまう。

歌も同様に言葉がある程度の制約、この場合リズムの上に乗ってなければいけないのだ。リズムに乗ってなければそれはただの叫びだ。それはそれでパンクで素敵だが。

とどのつまり、歌詞とは言葉でありながらもリズムに合ってなくてはいけない。詩ではだめだし、小説でもダメだ。

 

俳句、川柳、歌詞、評論、小説、詩、エッセイ、ブログ(日記)。どれも文章として自分を表現する方法である。これらにも勿論それぞれ制約はある。

ここにおける制約は文体にどれだけ規約があるかということだ。

俳句が俳句であるためには、5・7・5でなくてはならないし季語も必要だ。川柳には季語は必要ないがこれまた文字数の制約がある。

歌詞は前述の通り、文字数の制約はないがリズムに合わせなければいけないため自然と縛られていく。

評論はリズムこそ必要ないが、評する対象は必ず必要となる。よって内容は自ずと縛られる。

その他に関しては制約はあんまりないかもしれない。詩は文字数を多すぎることはできないくらいか。小説とエッセイはフィクションと日常の二大散文だ。そしてブログは言わずもがなフリースタイルの極地だ。

こう考えると俳句や川柳に通ずる人は文字数への意識が当たり前だがバリ高い。一文字の負担が圧倒的に大きい。接続詞すら惜しいくらいの文字数で、情景から心情を、心情から情景を表すテクニック。その中で枕詞なんて技術も生まれるんだから驚きを隠せない。

小説やエッセイを書く人もまたすごい。一本ないし複数の軸の上でつらつらと物語を展開していく根気と力量。なんでも表せるからこそ、その人自信の文章力、表現力が試される。恐ろしくて手が出ない。出せない。

 

即興ではあるが歌詞を作っていて思う。縛りや枠組みは自由を奪う代わりに、創意工夫を産む。精査と推敲の機会を与えてくれる。限定された条件の中で考える面白さの虜になる。

程よい縛りがあるからこそ、生き生きとしていられるのかもしれない。

明日からずっと休みって言われて、生き生きできると言われればそうではないかもしれない。制限のない休みはさぞ退屈だろう。

メリとハリだ。光があれば影がある。縛られているからこその自由。真理であろう。

そんなことを文章フリースタイルのブログで書いてみた。

 

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