OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

食事の本懐

旅行はどこにいくかというより誰と行くかである。

なーんていう言葉がある。確かにその通りである。

先ほど、めちゃくちゃ高い焼肉を食べた。便乗に次ぐ便乗の末ありつけたものだが、やはり高いお肉は美味しかった。普段100g50円程の鶏胸肉というコスパ的に最高に素敵なお肉を食べていることもあり、一切れ何千円という牛肉のインパクトは飛びぬけた衝撃となって脳みそを揺さぶった。

自ら美食を探し回るほどの美食家ではないが、コバンザメとなって美味しいものに巡り合うことはままある。旅行先などではそういうものにめぐり合い易い。旅先くらいは良いものを食べようとするからだろうか。良いものは得てして高いのだけれども。

「美味しい」というのは一つ一つが衝撃的だ。その瞬間瞬間で「美味しい」という思いが脳天に直撃する。しかし不思議なもので、時間がたつとその強烈な感動はなにがなにやら分からなくなってしまう。美味しいという記憶こそあれ、その瞬間の記憶を思い出そうとするとそうもいかない。どのように美味しかったのか、それが霧がかかったように思い出せない。

これは痛みと似ている。かつての切り傷や刺し傷、骨折や捻挫。その痛みをうけた瞬間は二度と同じ事をしまいと思うのだが、時間がたつとどんな痛みだったかを忘れてしまう。故に、同じ痛みをもう一度繰り返してしまう。アホ故に。これは自分がアホ故にだが。

記憶の良し悪しは別として圧倒的な知覚にさらされると、それは記憶となり頭の中に保管されるらしい。焼肉然り、怪我然り。記憶を引き出すには紐付いた知覚が原動力になる。しかし知覚自体は鮮明に記憶されない。「美味しいものを食べた」「痛い思いをした」事実だけが焼きついて、一番覚えておきたい知覚は、どこか遠くに追いやられてしまう。

そう考えると旅先では美味しいものをという考えはすごい贅沢だ。一瞬の感動を求め、記憶に残らないものを求める。

さっきの美味しさを自分は忘れていく。なんなら、リステリンをしてもう忘れた。けど、誰と食べたかは記憶にしっかりと残る。きっとこれこそが食事における財産なんだろう。慣れない高級焼肉に中てられて慣れない思考をした。

 

eat----あなたを食べたい。 (ヒメゴト倶楽部)

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