飲み過ぎ、ダメ、ゼッタイ
吐くことが嫌いだ。まぁ好きな人などいないだろう、といった心境だが嫌いなものは嫌いである。
大体吐き気を催すのは酔っぱらった時であるから、へべれけオーバーランな状態で記憶を確かに持っているのは稀である。なので大した記憶は残らない。しかし猛烈な気持ち悪さが喉や口には残ってしまう。あと頭痛も残ってしまう。
これに加え、人が吐いているところを見るのも相当に嫌いだ。なんとも身勝手な話だが、自分の嘔吐より他人の嘔吐の方が嫌悪感は増し増しである。いわゆる嘔吐されるの恐怖症である。
これには深い理由がある。話は小学生の頃にまで遡る。
学校給食というものがある。皆さんご存知であろう。
小学生の頃は好き嫌いなくものを食べることで丈夫で健康な体を手に入れられるという教育を受ける。それゆえ、学校給食において満遍なく食べられる人間はそれだけで称賛を受ける。よく食べる人間こそ正義とされる。
幸い自分は大好きか好きかという二択しかもたないバカ舌だったため、1年1組のおかわり大王として君臨していた。
しかしそうではない人もいる。むしろ好き嫌いがある子どもの方が多い。彼ら彼女らにとっては嫌いなものが献立表に載っている月は黙示録に怯える信徒のように戦々恐々な恐怖月間となる。
にんじんが食べられず昼休みを潰す者、きのこが食べられず他人に譲渡しようとする者、胚芽パンが食べられずに食べるふりをして床に落とし続ける者。
様々な方法で嫌いな食材に戦いを挑んでいた。そして勝利を掴む者、敗れ地を這う者、様々だった。悲喜交々。
そんな中、1週間に1度くらいの頻度で嫌いなものの壁にぶち当たる苦労人がいた。たっくんである。こちらのブログにもたっくんが少し登場するのでよかったらご一読。
たっくんとは出席番号が近かったため、給食の席も当然近かった。そういう事情で自分はたっくんの再三再四に渡る嫌いなものとの戦いを見続けていた。
たっくんの好き嫌いは壮絶だった。
嫌いなものは頑として食べない姿勢を続けていた。口は真一文字に結ばれ、可食品目と不可食品目を淡々と分ける作業を給食の時間を告げる鐘と共に始めるのが日課だった。
しかし、担任はそれを認めない。たっくんの健康のため、たっくんの将来のためという大義名分を以って、たっくんに好き嫌いせず食べることを命じていた。
小学1年生にとって担任の先生は圧倒的な権力者である。たっくんは頑として食べない姿勢を貫こうとするも圧倒的権力者の前に屈服することが多く、最終的には嫌いなものを口に運ばざるをえなかった。
たっくんの好き嫌いの多さにも目を見張るものがあったが、真に驚くべきなのはその嫌悪の度合いであった。
嫌悪であり、憎悪。親の仇の如く多品目に分け隔てない憎しみをぶつけていた。権力に負けて憎悪の対象物を胃袋に流し込むことは、たっくんにとって神への冒涜以上の行為らしく、たっくんは自分の胃に食物を入れることはするもそれを自ら吐き出すというなんとも敬虔な特殊能力を身につけていた。
席が近い自分はその礼賛行為を何度も目にしていた。特殊な趣味の人から見れば月一くらいでの嘔吐はなんとも言いがたいゴールデンビューなのだろうが、こちとら自意識が発達の兆しを見せかけている少年期である。繰り返される凄惨な光景をただただ静観するしかなかったし、そんなインパクト抜群なものを見続ければちょっと苦手意識を持つのも当然といえば当然だろう。
かくして自分は嘔吐という行為に苦手意識を特別持つようになった。
大人になった今となっては、苦手なもので嘔吐することはまずないだろう。むしろ、好きなお酒を飲んで嘔吐する行為を見るばかりだ。好き過ぎて飲み過ぎてしまう。しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。なんでもやりすぎは良くない。内省しつつ、明日からもアルコールに塗れた吐瀉物とお付き合いしていく覚悟を静かに決めた。