アイコンに対する意識改革宣言
LINEにしろTwitterにしろブログにしろ、SNSというものを始める時には必ず最初にアイコンを設定してください、と催促される。本人画像であれ、異なれ、なにか自分を象徴する画像を載せろと要求される。
素直に自分を出すにしろ、控えるにしろ、自分のなんらかの意思がこもった画像がネットの海に流布されるわけだ。そう考えるとどうしても慎重に選ばずにはいられない。
自分に相応しい画像とは。自らのコンプライアンスを犯さない程度に自分を表現する画像とは。
このアイコン画像をぽんぽんと変えていく人もいれば、まさに君はこれ!と感じるほどに一つの画像が君臨し続ける人もいる。
まぁ、究極のところを言えば自分自身が他人のアイコンをそんなに興味深く眺めているかって言えばそんなことはない。だからこんなのなんだっていいんだって、という気持ちがムクムクと首をもたげたかと思えば次の瞬間には慎重で臆病な自分が顔を出してやっぱ人様への第一印象だしなって感じでそれなりに画像を精査しだしたりしちゃう。
一般的なアイコンに対する意識はそんなものなのだが、ゲイとしての自分なりの問題が一つある。
それはゲイコミュニティーにおけるアイコンの重要度はかなり高い、ということだ。
出会い系のアプリやTwitterでこの問題は顕著なのだが、やはり「顔」が重要なのである。
カッコいい人、カワイイ人と出会いたい、お話したいという願望が底にあるSNSにおいてはアイコンは正にその人の「顔」となる部分であり、そこでまずゲイの厳しい審査をパスしなければならない。アイコンによる審査をパスできなければその人に取り入るチャンスすら与えてもらえない。
この出会いが飽和した時代、人となりよりも重要になってくるのは「顔」であることを示しているのかもしれない。世知辛い話だ。
しかし、ある程度の審査があるといっても別にそこまで厳しいものではないことが多い気がする。顔写真を設定していたら大抵はフォローなりなんなりで取り入る隙間は生まれるだろう。
審査というより、こっちも顔写真を設定しているのだからそっちも見せてくださいね。といった感じの言わば名刺交換の要素がゲイ界のアイコンには含まれていると言った方が正確なのかもしれない。
つまるところ、だ。ある一定の要素さえクリアしていればアイコンなんてなんでも良いという結論にもう一度着地できる。
最低限に顔が判別できていれば、アイコンの基本要素は満たしているのだ。あとの細かいディティールなんて、それこそ自己満足の世界だ。誰も気にしていない、誰よりも自分が気にしてしまう世界の話だ。
盛大にウケを狙おうと思えば誰も反応してくれず、なんでもない画像を設定したら粗を探される。それがアイコンってもんだろう。
加えて言えばアイコンって名前が良くない。
象徴という意味のiconを含んでいるから、人々はアイコンを重要視せざる得ないのだろう。ポップアイコンといえば、マイケル・ジャクソンだしセックスアイコンといえばマドンナだ。このビッグスターの方たちと肩を並べるかのように我々がアイコンを打ち立てていては申し訳も立たない。
もっと添えるだけ、みたいな控えめな名前はないだろうか。
「仮初め」とかどうだろうか。流行に乗っかって「ペルソナ」とかどうだろうか。
○○さんのペルソナが更新されました。
こんな通知だったらどうだろうか。見ちゃうかな。うん、見ちゃうだろうな。
弊ブログのアイコンも、OTNKというブログ名を冠していながらも別にOTNKの画像ではない。逆にOTNKの画像だったらサービス停止へ一直線だ。(OTNKがなにか分からない方は下記ブログ参照)
そんなものだ。適当なアイコンでもいいんだ。
考えるほどのものでもなければ、案ずるほどのものでもない。
SNSの類にはどうしても表層の自分であるシンプルなアイコンが必要になってくるが、ほんとに大事なのはもっと先だ。
アイコンなんかじゃ表せない、剥き出しで絵の具を全部混ぜたような複雑な色をした自分が大切なんだ。
アイコンで遊ぶも良し、無難にするのも良し。悩むことではない。
我々はネット社会に生きているのでは非ず。ネット社会の「ペルソナ」に惑わされず、本当の自分を大切にしていこう。