OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

今日も今日とてブログを書く、暇やし

哲学を考えている時ってのは暇な時だ。余裕がある時だ。今にも飢えで死にそうな時に、人はなぜ生きるのか、なぜ今を生きているのかなんてを考えれる人は恐らくいない。当面の問題を解決するために動く必要がある時は、自己存在の問いはきっと宇宙の彼方だ。

故に、ブログが書ける時ってのは余裕がある時だ。弊ブログも三文文士とはいえど、それなりに頭使って書いている。何故生きているのかも気になっちゃったりする。有難いことに暇故に。

 

我思う故に我あり。

この世のあらゆるモノを疑いきったデカルト先生が辿り着いた世界唯一の確かなことだ。とびきり頭のいい人でも、自己存在の哲学は気になっちゃうらしい。

数学や科学や物理を研究しながらでも、片手間で哲学に勤しんだ偉大な先人たちは多くいた。そんな先人たちを山のてっぺんとするなら、自分という一般市民は裾野くらいの位置にいるのだろう。

てっぺんで哲学する人はきっとその漠然とした哲学を纏めきれる。しかし裾野の自分は壮大な哲学を纏めきれない。デカルト先生のようには当然だがなれない。壮大な何かをボーっと考えて悶々としたまま終わっていく。

 

壮大な何かを考えているとき、人は脳内で独り言を呟く。これは皆もそうではないだろうか。

コナンくんだってそうだ。そうか...!そうだったのか...!犯人は間違いない、あの人だ!なんて言っている手前には、彼は延々と脳内で独り言を呟きまくっている。

とびきり頭のいい彼でさえ考えを纏めるのに呟きを介在させるのだ。ならば、特別頭の良くない自分はなにかに書き留めておく必要がある。そこでブログだ。

 

暇故に哲学をし、頭が良くない故にそれをブログで書き留める。その場で頭から過ぎ去って行ってしまう哲学を文字という形でなんとか落とし込む。だって勿体無いじゃん。纏まらなかった哲学も実は宇宙の真理に通じているかもしれない。エッチスケッチワンタッチしてるかもしれない。そういう勿体無い精神からもこのブログは存在しているのだ。

 

物事を考えるのにブログを使うっていうユーザーは、そんなに珍しいものでもない。なにも自己存在とかの小難しい哲学じゃなくても、日々のなんでもないことを哲学するってのは書き手としては常套手段だ。というかそうでもしなきゃそんなに毎回書き続けられない。

ライフハックみたいな便利さをがんがん押し出す実学的哲学にしろ、政治経済の考えを語るビジネスライクな哲学にしろ、日々の雑事を哲学まで発展させるのがブロガーの性であろう。

哲学するっていうファクターを挟む都合、考えなきゃいけない。考えなきゃ文に落とし込めない。つまり、日々の充実度に反比例する形でブログってのは成り立つわけだ。

充実すればするほど書くことは増えるようで、考えることは減る。楽しさや忙しさ、辛さは溜まるけども過食の結果、消化が出来なくなったりする。リア充してるやつほどSNSにはあがってこないっていうあの理論と一緒だ。

つまり何が言いたいかっていうと、こんな駄文を書いている今は結構暇で、その暇を楽しめているからありがたいよーってことだ。日々の哲学できる環境に感謝。

 

マジ感謝

マジ感謝