OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

制約と誓約〜歌詞作り編〜

自作の歌を突拍子もなく歌う。リズムも歌詞もメロディーもすべて手前で用意してのオリジナルソングを時々歌う。酔っている時なんかは頻繁に歌っているらしい。

これがまぁ楽しかったりする。やったことある人はお分かり頂けるであろう。何が楽しいかって歌詞を即興で出す瞬間だ。この歌詞が思いの外に耽美なフレーズが出たり、思いの通りにクソみたいなフレーズがでたりとその即興性のなかに意外とバラエティがあって面白い。

正直、リズムやメロディーは似たり寄ったりが多いが歌詞作りに関してはそこそこの努力をしている自負がある。そこらのシンガーソングライターの1/10くらいは歌詞のことを考えている。職業サラリーマンとしては中々考えている方ではないだろうか。

なに遊んでんだ、働けという叱責が飛んで来そうではあるがそこは一旦置いておこう。置いておいたついでと言ってはなんだが自分の歌詞作りの秘訣、というほど大層なものではないが、即興歌詞作りにおけるささやかな制約を書いておこうと思う。

 

まず即興の歌であるにしても歌詞ではあるのだから奔放に言いたいことをいってもダメなのである。誰に聞かせようとしていなくても、誰も聞いてくれていなくても歌として口に出すならその装丁は整えておかねばならない。

本はその紙の集まりが一つの物語として綴じられていなければならない。一定のルールで、本の場合糸で綴られてなければそれは落書きの集まりになってしまう。

歌も同様に言葉がある程度の制約、この場合リズムの上に乗ってなければいけないのだ。リズムに乗ってなければそれはただの叫びだ。それはそれでパンクで素敵だが。

とどのつまり、歌詞とは言葉でありながらもリズムに合ってなくてはいけない。詩ではだめだし、小説でもダメだ。

 

俳句、川柳、歌詞、評論、小説、詩、エッセイ、ブログ(日記)。どれも文章として自分を表現する方法である。これらにも勿論それぞれ制約はある。

ここにおける制約は文体にどれだけ規約があるかということだ。

俳句が俳句であるためには、5・7・5でなくてはならないし季語も必要だ。川柳には季語は必要ないがこれまた文字数の制約がある。

歌詞は前述の通り、文字数の制約はないがリズムに合わせなければいけないため自然と縛られていく。

評論はリズムこそ必要ないが、評する対象は必ず必要となる。よって内容は自ずと縛られる。

その他に関しては制約はあんまりないかもしれない。詩は文字数を多すぎることはできないくらいか。小説とエッセイはフィクションと日常の二大散文だ。そしてブログは言わずもがなフリースタイルの極地だ。

こう考えると俳句や川柳に通ずる人は文字数への意識が当たり前だがバリ高い。一文字の負担が圧倒的に大きい。接続詞すら惜しいくらいの文字数で、情景から心情を、心情から情景を表すテクニック。その中で枕詞なんて技術も生まれるんだから驚きを隠せない。

小説やエッセイを書く人もまたすごい。一本ないし複数の軸の上でつらつらと物語を展開していく根気と力量。なんでも表せるからこそ、その人自信の文章力、表現力が試される。恐ろしくて手が出ない。出せない。

 

即興ではあるが歌詞を作っていて思う。縛りや枠組みは自由を奪う代わりに、創意工夫を産む。精査と推敲の機会を与えてくれる。限定された条件の中で考える面白さの虜になる。

程よい縛りがあるからこそ、生き生きとしていられるのかもしれない。

明日からずっと休みって言われて、生き生きできると言われればそうではないかもしれない。制限のない休みはさぞ退屈だろう。

メリとハリだ。光があれば影がある。縛られているからこその自由。真理であろう。

そんなことを文章フリースタイルのブログで書いてみた。

 

HUNTER×HUNTER 35 (ジャンプコミックス)

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繰り返し!!なぞれ!!!

皆様には引っ越し経験はあるだろうか。自分は2回ある。就職時に社員寮へと引っ越したのが1回と、寮から出ていき一人暮らしを始めたので1回。

引っ越した際、とりあえず覚えることと言えば最寄り駅と自宅までの道のりであろう。最初は駅と自宅の点を線で繋ぐだけの2次元の道であるのだが、住み慣れていくと徐々にコンビニやスーパーやご飯屋さんを求めさまよい、結果、平面として地理を捉えていく。見知らぬ土地で道を覚える楽しさというのは結構代え難い幸福感があったりする。

 

幼い頃、自分は同じ本を繰り返し読むのが好きだった。今はそんなに読まないが、当時は暇さえあれば勝手知ったる本を繰り返し楽しんでいた。「きょうりゅう図鑑」や「ギネスブック」なんかが大好きだったように思う。漫画に関してはもっと顕著で、「ワンピース」や「BLEACH」なんかは何ページに何が書いてあるとかまで覚えていたし、「江戸前の旬」という寿司漫画も地味に好きだった。

道を覚えることと何度も同じ本を読むことは似ている。少なくとも、似ていると感じる。同様に、旅先で観光地までいくことは、新書で知識を仕入れることに似ている。この感覚なんとなく分かってくれる方はいるだろうか。

同じ本を何度も読み、文章の流れ、全体の流れを身につかせる。すると、自分でもそのような書き方が出来るように感じるし、やってみたくなる。それは駅から家までの道を何度も辿ってスイスイ歩くのと、とても似ているのだ。

自分の文章は多分、当時読みふけったいくつもの本に由来している。あの頃、何度も太宰治を読んでいたとしたら、自分の文章や知識は飛躍を遂げていたかもしれないし、入水自殺をしていたかもしれない。

自分の体に知識や技術を覚えこませるには、同じことを何度も繰り返すというのが実に単純で最も早いやり方だったりする。急がば回れ、というやつだ。しかし、当座の知識や技術だけが必要な場合は、お手軽な手順書を一度さくっと読むだけで恐らく事足りるだろう。これが同じ本を読むことと新書で知識を仕入れることの違いだ。

 

今もたまに本を買って読むことはする。しかし、どうしても知識を仕入れるだけの読み方となってしまうのが現状だ。これになんだか勿体無さと一抹の寂しさを覚える。youtubeやテレビで新しい刺激を受けることに慣れてしまい、何度も同じ知識をなぞって体で会得するものに対しての感度が低くなってしまっているのだ。

毎日たくさんの刺激を浴びて、嬉しかったり苦しい思いをして、家に帰ったらなんでもない動画をみて、日が暮れていく。それはきっと目的もなく出かけて放浪して帰ってくるだけの外出に過ぎないように思え、やはり勿体無い気がする。繰り返し覚えこませることが一切出来ない寂しさを感じる。

また、スピード感を求められる現代社会において、反復の上でのんびり会得していくことに重きは置かれていない。自分が10往復して覚えた道を、5往復で覚える人がいる。すると、自分の反復はほぼ意味のないものとなってしまうのだ。同じ5往復で終えようとするものの、何一つ覚えられずに物事は次の段階へ...みたいなことが往往にして起こるのがこの社会だ。一回言ったことは覚えなさい、ってのも酷く残酷的な言葉のように感じてくる。

費用対効果は費用のカットに目を向けたくて使われる言葉だが、今こそ効果に目を向けて、効果を出すだけの費用をかけてやりたいなぁと、考えるここ最近だ。

 

 

道

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書いてなんぼの世界ですが

もう10月かぁ。時が進むのは早いなぁ、とかなんとか思いながらも、時節の区切りでなにかをしてみようという気にもならず、だらだらと過ごして早一週間が経とうとしている。

無為に日々が消費されている感覚のなかで、そういえばしばらくブログ書いてないじゃんと思い、ブログを書き始めた午後6時。

ブログを書かないでいる間にも、当然色々なことがある。だから書きたいことは溜まっていくのかと言われれば、意外とそうでもない。いざ書き始めてみて分かったことだが、書かないでいると書きたかったはずのたくさんのことが自分から抜け落ちていくのだ。嬉しかったこと悲しかったこと、全部が抜け落ちていく。穴の開いたバケツのように、感情は簡単に自分から流れていく。

無為に日々が消費されていく感覚とは、この感情の流出から来ているのだと思う。何も無い日々ってのはきっと無くて、なにかあったけどその時の感情を思い出せない日々ってのが連続してあるだけなのだ。

感情の流出を防ぐ為には、その時の感情を表現しなければいけない。文章だったり、会話だったり、音楽だったり、その時の感情を表しているものを表現できれば、それはきっと思い出となり、味のある日々を作っていける。

しかし、現実にはそうも簡単にその時の感情の表現は出来ないってのも当然ある。体力が無かったり、気力が無かったり、日々のしなきゃいけないことで人の元気、やる気の余剰分ってのは目減りしていく。

そうしたいくつかの力の余剰分を使って、人は能動を貪り、趣味に浸る。そうして日々の感情を表現していく。日々に彩りをつけていく。

仕事を上手く回したいなと思う日々である。社会に命じられるやらなきゃいけない事、仕事ってのは大抵粛々と回る。粛々と回るってことは、個人の力の余剰を殆ど許さない。だからこそ仕事を上手く回すってことは、その力をどれだけ余剰に回せるか、温存出来るかってことにかかってくる。これが出来ないとライフはワークのお疲れを癒すためだけの物に成り下がる。だからこそのライフワークバランス。仕事と趣味の分断なのだろう。

感情の表現を出来る方法がいくつかあるだけでも良かったかな、とも思う。会話や音でそれを表現できれば、もっと楽しかったであろう。

 

しかし、書いてみると意外と楽しいもんだ。書かない生活に慣れると書いていた頃には間違いなく書いていたアレコレすら書く気力がなくなっていく。恐ろしいことだ。というか、昔は2日に1回書いてたのが逆に恐ろしいが。それでも無為な日々を送らないように、これからもちょくちょく書いていこうと思う。

 

 

楽しもう

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鼻くその話

鼻をほじるのが好きだった。

鼻くそはほこりを吸い込むたびに生成されるらしい。鼻くそが鼻の粘膜を塞いでいるときにそれを取り除く瞬間の清涼感といったらない。ミンティアスーパーミントを大量に摂取した時の感覚に酷似している。どことなく風が吹きぬけ、肌をすべっていくような感覚を残す。と、錯覚するほどだ。要はやみつきになる。

この癖は幼いころからあった。まだ物心ついていない時は人目を憚らずほじることもあったらしい。自我が芽生え羞恥心が生まれてからは人目を憚り、周りに誰もいないことを確認してからほじるという可愛げのある行動をとっていたものだ。

やはり幼少のころから、鼻くそを取り除いたときのその爽快感を目的にしてほじっていた。取り除かれた後の鼻腔で新しい空気を吸い込む。その瞬間の感動といったらなかった。世界にはこんなに美味しい空気があるのか!鮮烈だった。

修学旅行の写真かなにかで鼻ほじプライベートタイムを全校規模で晒されたこともあった。自分はどこ吹く風であったが、何よりも親が悲しんだ。

その小中学生時代である。その期間、自分はよく風邪をひいていた。年4,5回だろうか。今思うと休むほどではないが体調を崩すことはままあった。体は大きいのに、体は弱いというのが非常に悔しかった思い出がある。

ここで鼻くその話と繋がる。満を持して。その体調不良の原因は鼻ほじりにあったと最近マジで思っている。

鼻の穴とは粘膜である。喉にウィルスが付着したら風邪をひく。これは自明の理だ。ならば、鼻の粘膜はどうか。鼻の粘膜は触れられる粘膜だ。泥のついた手。菌のついた手。これらで鼻をほじることは菌の進入を快く受け入れているようなものだ。完全に風邪待ったなし。

自分が快感を求めて行っていた行為が、他方風邪を引き寄せていた。恐ろしい事実だが、これもまた世の必定なのかもしれない。鼻をほじる行為は勿論褒められた行為ではない。それを戒めるための神の罰か、悪魔の悪戯か。なんにせよ衛生状態は気にしたほうが良いのだろう。

今、自分は大人になった。大人になったことで、分別と知識がつき鼻ほじタイムをコントロールできるようになった。相変わらず鼻をほじったあとの爽快感は忘れられないが、TPOと衛生状態を加味して鼻ほじタイムを設けている。そうすることで風邪をひく回数が減ったように感じる。粘膜が守られている感じがする。

本当はこんな恥ずかしい話をネットというパブリックな場所でするべきではないとは分かっている。しかしこの仮説を思い当たった瞬間、書かずにはいられなかった。晴天の霹靂。しかし見返してみるとやはり恥ずかしい。穴があったら入りたい。

 

穴があったら挿入りたい (ジュネットコミックス ピアスシリーズ)

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柔道少年回顧談

5歳から18歳まで柔道の道場に通っていた。約13年間である。良い事も嫌な事もあった。今回はその中でも特に嫌だったことを思い出したので書こうと思う。

 

スポーツの習い事をしていて何が一番嫌って、練習場所へ行く道中である。移動をしながら、あーやりたくないという思いを悶々と考え続けるのが特に嫌だった。行ってしまえばあとはもうやるしかない。練習内容を体に覚えこませた後はもう作業みたいなもんである。気づけば時間が過ぎている。どうしても行きの時間が永遠のような生ぬるい地獄に感じていた。

特にそれが顕著だったのは幼少期である。

6歳だか7歳の小学校にあがったばかりの頃はそれを強く感じていた。今思えば小賢しいガキだった。子どもなら子どもらしく練習を遊びと思って楽しくはしゃいでおけば良いのだ。それが許される期間が幼少期だ。自分の同年代にも練習を楽しんで飛んで跳ねてをする子もいた。むしろ子どもにとっては我がままに体を動かせるユートピアのようなものだ。そうすればそうするほど評価も得られたであろう。

しかし、自分はそうしなかった。子どもながら、同じ子どもがはしゃいでる姿に引いていた。何故そこまで脳のネジを吹っ飛ばせるのか。自らカオスを醸造し、そのカオスに飛び込んでいくような真似はどうしてもできなかった。場に慣れようと飛び込んでみるもののやはり何か違う。そんなサイクルを繰り返していた。ほんとに小賢しい。お酒を飲んでカオスの沼に積極的に落ちていく今のほうが単純明快な気さえしてくる。

 

練習が嫌ならばその道中も凄惨たる様である。天竺に行く道中に道場がそびえていたなら、即刻天竺到達を諦める。斉天大聖?知ったこっちゃない。といった調子だ。

当時はバスで道場に向かっていたのだが、バスに乗ったふりをして練習が終わる時間まで隠れて過ごそうとか思っていた。しかし、その作戦もあえなく親に見つかり車で送り届けられることもしばしばであった。

ピカチュウの生物分類を研究しなくちゃいけないから帰って!」

とどこまでも知的なのかアホなのか分からない言い訳をかましたことを今でも覚えている。そんな嫌がる困ったちゃんにも道場の門戸は開かれていたのだから、今となっては感謝感謝である。

 

今日、街中で柔道着を着てはしゃぐ子ども達を見てそれを思い出した。この子達はきっとあのカオスな生存競争を生き残っていけるだろう。どうか淘汰されませんように。そんなことを思いながらその子ども達を横目に見送った。

 

この思い出は自分が社会という柔道の道場をも凌ぐカオスの沼に自ら率先して足を踏み入れる16年ほど前の出来事のことであった。

 

 

 

少年時代

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昔出会った男に恋愛観を変えられた話。

ハンバートハンバートという男女二人組の歌に「今晩はお月さん」という曲がある。心の傷が癒えない男女の生々しい別れを歌った曲だ。その歌にこんな一節がある。

 

『帰りたくない 今夜だけは

   何もかも忘れて 眠ってしまいたい』

 

そう、何もかも忘れて眠ってしまいたい時がある。

僕たちはどんなに今に力を尽くしたって、過去に囚われてしまう。忘れられない何かがあるから、忘れようと旅に出るし、映画を見る。宴の後の寂しさは、宴の後の日常が覆い被さってくるからこそ感じるものだ。

つまり、何もかも忘れて眠ってしまうなんてことは出来ないからこそ、何もかも忘れて眠ってしまいたいのだ。人は出来る事より出来ない事を願って日々を消費する生き物なのだろう。

 

お盆だ。

それぞれ休みだったり休みじゃなかったりするのだろうか。自分はそこそこのお休みを頂き実家に帰省中だ。

親の手料理を食べたり、昔の学友と大いに笑い語ったり、楽しい帰省の日々を送っている。

 

同窓会と言うわけではないが、高校の同級生15人くらいで集まって飲み会をした。

今や社会人2年目となった自分たち。それぞれがそれぞれ社会に対して様々な形で順応したり、抗ったりしているようだ。

そんな近況報告もそこそこに済ませると、そこは若者同士。話題はやはり恋愛の話に次第にシフトしていった。

プロポーズ、結婚、はたまた出産。そんな男女の恋愛で当然あるべき単語が飛び交う中やがて白羽の矢は自分のもとへ。

 

「荻原(ブログ主)は新しい彼女でも出来たのか?」

 

 

自分には昔、彼女がいた。中学卒業時から付き合った彼女で、大学2年生の冬まで付き合った。

最後の方は腐れ縁のような関係になり、なあなあで付き合っていたと言っても差し支えはなかった。しかしそれでも、当時はそれなりに愛慕の感情はあったように思う。

そんな彼女には自分の方から別れてくれと告げた。理由は「男が好きだから」。

彼女には今となっては申し訳なさしか感じない。中学卒業から大学2年生までの約5年間。青春時代の殆どを自分を彼氏として過ごしてもらった。それなのに自分が彼女へ告げた最後通牒は、結婚のプロポーズでもなんでもなくて「男が好きだから別れて欲しい」。我ながらなんとも酷い男だ。

 

自分がゲイとして活動を始めたのは大学2年生の夏。つまり、自分には「自分がゲイだと自覚していながらも彼女にはそれを告げず関係を維持していた期間」が存在する。

この期間は単に逃げの期間だったと今振り返れば思う。ゲイとして日々を過ごしていながらも自分はまた元の道に戻れる。そんな"非常出口"として彼女という存在自体を心の拠り所にしていた。

 

まだ大丈夫、まだ大丈夫。自分には彼女がいるからまだ大丈夫。

 

そんなゲイにとっても彼女にとっても大いに迷惑なことを自分は半年間ほど続けていた。

そんな最低な考えを変えたのは、ある男との出会いがきっかけだった。

12月の中旬。ある男とリアルをした。そして性欲の勢いに任せて身体を重ねた。

その頃の自分は男との恋愛に対して非常にドライな考えを持っていた。

 

カジュアルな恋愛の方が気楽だから好きだとか、もう大人だしもっとエグみのある恋愛がしてみたいだとか、そんな一般的な恋愛観をゲイとの間柄に持ち込むのは決してしないでおこうと誓っていた。何故なら、自分がゲイとして生きていくつもりは毛頭なかったし、恋愛に付随してくる面倒ごとには巻き込まれたくなかったからだ。

結局、ゲイの恋愛なんて性衝動をぶつけ合うだけのもの。甘酸っぱい恋愛とかはリアルじゃないし、そもそも人間の欲なんてそんなもんだ。

手を繋ぎたいだとか、もう少し一緒にいたいなんていうプラトニックな感情は、「SEXがしたい」っていう性衝動を隠すもっともらしい嘘だと信じて疑わなかった。

「手を繋ごう」と言われればその手を取ってホテルへ向かおうとしたし、SEXの後に「もう少し一緒にいたい」と言われれば自分の身の置き所の無さに居心地の悪さを感じた。

リアルする度にそんな言葉を吐く男の人を見ては、そういう浅ましい取り繕いはやめて「SEXがしたい」とハッキリ言ってくれよ。そっちの方がこっちも楽だ。とすら思った。

そういうプラトニックな感情は自分にとっては回りくどくて、仮にプラトニックな恋愛を求めるとしてもそれは男に向けられるものではないのだ。

 

そんな恋愛観を持っていた自分が出会った男。彼は身体を重ねた後にこう言った。

 

「君はSEXの前と後では態度がまるで違うね。それで傷つく人もきっといる。なにより、その考えはきっと君の大事な人にも伝わってしまうと思う。まぁでも、それでも、今日はありがとう。」

 

味気ないSEXだったんだろうなぁと今になっては思う。それでも、お互い様で傷を舐めあった後にきちんと感謝を述べてくれた。寂しい夜に一緒にいてくれてありがとうと言ってくれた。そしてなにより、虚無の時間に疲弊しても、心の隙間が埋まらなくても、一緒に過ごした時間を大切に思ってくれたのだ。

 

その優しさに心底打ちのめされた。性衝動を消費するだけだった男との出会いに初めて光が差した気がした。

男同士の恋愛を軽く見ていた自分に彼は優しく諭してくれたのだ。「それでは大切なものまで軽くなってしまう。」と。

確かにその通りだった。その証拠に自分はゲイとして活動しながらも彼女との関係を維持し、彼女自身を"非常出口"として軽く見ていた。

だからこそ彼との出会いをきっかけに自分は考えた。自分はなにをしたいのか、なにを大事にしたいのか。

その結果、自分は彼女に別れを告げ、ゲイとして生きていこうと決めたのだ。これが約4年前の出来事だ。

 

同窓会のなんでもない話をきっかけになんだか昔の事を思い出してしまった。

重ねて言うが、彼女には本当に申し訳ないことをした。彼女は寛容で自分が「男が好きだ」と言った後もそれを許して、友達の関係でいてくれている。だからこそ彼女にはもう償いは出来ない。彼女は彼女の人生をもう歩んでいるからだ。

そして、僕がそれに甘えて何もかも忘れてしまうことも出来ない。

過去出来なかった想いで、人間は出来ているからだ。これまでもこれからも。

 

「荻原は新しい彼女でも出来たのか?」

僕は言った。

「付き合ってる人はいるよ。大事にしていこうと思う。」

 

キザ過ぎて学友達からは笑われてしまったけど、まぁそれでもいいだろう。

学友達も元彼女もみんなそれぞれ日本各地で頑張っているようだ。

自分も頑張っていこう。

人より劣る欠陥人間なら考えることなく散れよ

さあ今日も張り切ってブログ書くぞ〜と意気揚々とブログを書き出したのだが、なにかしっくりこない。「メタセコイア」の話をしていたのだが、どうにも納得のいかないものしか書けない。メタセコイアは太古から存在する植物で〜そこまで種を保存する気概が凄い〜それなのに俺というホモは...といういつものめんどくさい論法で1000文字くらい書いたところで、なんだかいつもの感じに辟易して全て消してしまった。消してしまったもんはしょうがないから、今日はいつもと趣向を変えて、砕けた感じで最近感じたことでも書き綴ろうと思います。恐らくネガティブな事ばっか書くと思うけど、まぁ是非見てくんさい。メタセコイアはまたの機会に。

 

・劣等感がヤバイ

最近感じる事と言えば他者に対する劣等感。これがジーマーでヤバイ。特に同世代に対する劣等感ね。あいつはこんな凄いことやってんのに俺という男は...みたいなやつです。

音楽活動している友達がいるんですけど、そいつがそこそこ大きな会場でライブするって言うんで招待されたんですよ。そんでそいつの頑張っている姿を間近に見てたんですけど、「いやーあいつはすげぇなー」っていう気持ちと共になんかちょっと悔しい?みたい気持ちが沸々と湧き上がってきたんですよ。別に自分は音楽活動とか一切やってないのに、ですよ。

なんか最後の方にはその悔しさに似た劣等感に完全に胸中を支配されまして、もう見てらんねえってなってラストのとこは席外しちゃったんです。悪いことしたなーって気持ちと同時に、友を素直に祝福出来ない自分の小ささにも嫌になったんですよね。まぁ、別にそれを誰かにぶつけるわけでもないし、ただ自分の感情の凸凹として時間と共に消化される程度のものなんでどうってことはないんですが、自分ってこんなに他者を羨む人間なんだなーって若干傷つきました。

元々、競争意識とかは低い方だと思ってます。競争意識育まれる学生時代には柔道とかやってましたけど地元では強い方だったんで、そこまで張り合う奴もいなかったんですよね。けど、全国に出たら自分より強い奴は何人かいて、まぁ全国レベルだと俺はこんなもんよな的な諦めが先に出る卑屈な学生だったんで、競争意識もそこまで育まれなかったです。

けど、ここに来て謎の劣等感。しかも全く知らないジャンルで。厄介なことこの上ないです。

大人になってから諦めよりも劣等感が先に出てくるって成長したんだかしてないんだか分かんないですね。皆んなもこういうの感じるもんなんですかね?

 

・人類の母的思考に嫌気が差す

意味分かんないこと言ってるのは百も承知なんで、説明します。

この前、会社の後輩が結構なミスやらかしまして、しかも即日にそのミスのケツ拭かなきゃいけなくてですね。直属の後輩ではなかったので別に関わらなきゃ良かったんですが、流石にそれも酷だと思って仕事手伝ったんですよ。

そこで手伝ってる時にずっと思ってたことがあるんですよ。「間違いなんて皆んなあるよ。それでこそ人間なんだ。それが生きていくってことなんだ。」って。

ふと思い返してみるとかなり気持ち悪い思考だなって思ったんですよ。普通なら「ああ、間違えちゃったんだね。」で済む話を、突然他人も他人の間違いも大袈裟に許容し始めて「自分は人類の母なのだ。」的なスケールのでかいことを言い始める。これ、俺の中ではかなり気持ち悪い思考なんですよ。

一つ前の劣等感にも繋がるんですけど、基本的に自分は他者より劣ってる自覚があって、それは諦めとして毎日淡々と処理してます。けど、そんな自分が急に他者を大仰に許す。自分の中の矛盾で心がギュッってなるんですよ。自己矛盾でストレス抱えるっていう欠陥人間だなって思います。他者より劣るなら劣るで、それでずっと小さく収まってれば?と感じる今日この頃。

 

・エロ動画がキツイ時がある

ホモやってるんですけど、時々ホモのエロ動画がきっつーって思う時あるんです。なんでなんやろうなーってずっと思ってたんですけど、背徳感が薄くなってるだからだと思い至ったんです。

それこそホモ始めた当初はPSPとかにホモエロ動画しこたま入れて通学時に見るほどエロ動画見てたんですけど、今はなんか食傷気味っつーかそんな感じ。

なら昔のそのエロ動画見る意欲はどこから湧いてたかっていうと、背徳感からだなーと考えたわけです。男同士でSEXするっていうその「イケナイコト」感。その背徳感が自分にとっての興奮の源流なんです。

性の世界って基本モノクロだと思うんすよ。特にホモのSEXって性衝動を満たすだけの実に淡白なもの。その他としても愛の確認とかそういう別にSEXじゃなくてよくね?みたいないくらでも代替が効きそうなものなんです。

じゃあ、SEXの旨味っていうか色味っていうかSEXを脚色してより良いものにしてくれるものはなんだって言うと、背徳感なんですよね。背徳感があるだけでリアリティが加速していくんですよ。無味乾燥の性の世界に旨味と色味と奥行きを追加してくれるんです。

だからこそ最近の自分は、ホモSEXってのに慣れてしまってその背徳感が急速に失われつつあるんだと思います。普通のものに成り下がってしまっている。

でも、折角なら楽しみたいですからね。なんか新たな趣向でも加えてみますか、と思う今日この頃。おススメあります?

 

とりあえず今日はここまで。

なんも考えずに書くと筆が進む分、内容が支離滅裂になる気がして怖いとこです。

あんまりネガティブ振りまくのも好きではないですが、まぁそれも堪忍堪忍。たまにはいいっしょ?