OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

賛否両論、天気の子、感想。

このブログには多分に「天気の子」のネタバレを含んでいますので、未視聴の方はご注意下さい。

 

見てきました、天気の子。

 

映画『天気の子』公式サイト

 

自分は新海誠作品は前作「君の名は。」しか見ていない。なので、「天気の子」には「君の名は。」の様なハッピーエンド幸せ展開を期待して観に行ったのだがその期待とは裏腹の、それこそ雨の様に心の中を曇らせる映画だった。しかし、「君の名は。」以上に考えさせられる作品であったので、その感想を適当にここに書いておこうと思う。

 

まず。「天気の子」の作品自体の感想としては自分は面白かったと言える。表面上のエンタメ要素としても鑑賞後の考えさせられる感としても中々のものだったと思う。

しかし、一緒に作品を観に行った彼氏はあんまり面白くなかったという感想を持ったようだ。その理由としては

・主人公達が犯罪ばかりしていて感情移入出来なかった

・東京disりがすごい

・エンディングがよく分かんない

とのことだ。

まぁ確かに、これらの要素は大いにある。これが所謂「君の名は。」との違いとなって、物語を正面から楽しめない要素になっているのだろう。ということで、まずは彼氏の感想からこの物語を考えていく。

 

・主人公達が犯罪ばかりしていて感情移入出来ない

そもそも主人公の帆高くんは家出少年で絶賛捜索届け出され中の全力補導少年だ。更には物語後半では、帆高くんは警察に追われることになり警察との大捕物を繰り広げる歴とした犯罪者に成長を遂げる。

ヒロインの陽菜ちゃんもこれまた未成年のみで自活する要保護対象者だ。そして、生活に困って売春行為に手を出しかけたりする。

ここまで書くと完全にアウトローカップルである。そんな彼らは完全に東京という完成された社会の中で逸脱者であり、「天気の子」はそんな逸脱者達の物語と言える。確かに普通の日常を送る我々には感情移入し難い設定であろう。

 

・東京disりがすごい

君の名は。」では田舎の少女、三葉が夢に見る所謂キラキラした東京の姿が描かれていた。しかし今回は全くの裏。ギラギラしたネオン街だったり、未成年を喰いものにする大人、身寄りの無い人を敬遠する人々が描かれている。むしろ意識的に描かれているとすら感じた程に、東京の裏の面が押し出されている。

ただ、それが一様に悪いものとして描かれていた訳では無いように感じた。

帆高くんの家出生活を支えたのはそういう東京のアングラな部分であったし、手を差し伸べたのは怪しい雑誌の編集者である小栗旬(名前忘れた)であったりした。

東京という完成されたシステムの中でつまはじきにされた主人公達を助けてくれるのもまた東京という完成されたシステムの裏側であった。そういう東京という街の二面性を描きたくて、あえて東京disとも取れる描写があったのではないかなと思う。

 

・エンディングがよく分かんない

エンディングの違いが恐らく「君の名は。」との決定的な違いなのだろうと思う。 

ここに来て初めて物語の大筋に触れるが、「天気の子」の大筋は「君の名は。」となんら変わらない。

男の子が数奇な運命の女の子を救う

ただこれだけの話だ。

これだけであるのに「天気の子」と「君の名は。」のエンディングは大きく違うものになっている。

君の名は。」は瀧くんが三葉が死んでしまうという過去を変えて、そして未来で出会う。隕石の衝突で死んでしまったみんなも無事でそれぞれの日常を歩んでいく。そんな最大多数の最大幸福的な救いのある物語だ。

対して「天気の子」では、帆高くんが陽菜ちゃんを助けることは出来た。しかしその救いの代償で人柱を失った東京は雨が降り続け雨の下に沈む。いわば、帆高くんの救いを否定するような終わりだ。1人の女の子を助ける為に最大多数の幸福を犠牲にする。そして主人公はそんな世界の在り方を変えてしまった東京を見て「狂っていてもそれを受け入れていこう」と締めて物語を終える。

1人を救う為に皆んなを犠牲にして、それを受け入れていってしまう。認めて諦めていってしまう。なんてエゴイズム溢れる終わり方なのだろうと思わせること請け合いだ。

君の名は。」にあった鑑賞後の爽やかな気持ちとは正反対のモヤモヤとした、それこそ雨天のような沈んでしまう気持ち。それが「天気の子」のエンディングにはこめられているように感じる。

 

この一連の物語を面白いと捉えるか面白くないと捉えるかは、それこそエンディングの捉え方に左右されると思った。

この映画を彼氏はあんまり面白くないと言った。彼は最大多数の幸福を願い、主人公の世界の在り方を変えてしうようなエゴを受容出来なかったのだろう。まぁいいや、で済ませられるものではないと思ったのだろう。社会システムから逸脱した主人公たちを憂い、東京の裏面を嘆き、主人公のエゴを是としなかった。彼氏がこれまで歩んできた人生の中で積み上げられた価値観に合わなかった。最大多数の幸福を得られなかったのだから、これはバットエンドだと捉えた。だから、あまり面白みを感じれなかった。そういうことだと思う。

対して自分は、この映画を面白いと感じた。それは社会システムから逸脱した主人公たちに共感し、東京の裏面を是認し、主人公のエゴを認容したからだろう。映画の中の彼らのエゴをそれもまた良しと受容出来たからだ。(どちらかと言うと受容出来る方がダメ人間度は高い)まぁ、それでも愛してる人と一緒にいられるのだから良いよね。みたいな適当加減で物語を捉えればこの物語はハッピーエンドになる。だから、面白いと感じる。

 

この物語は解釈次第でその人の人となりとか考え方をはっきりとさせてしまう。賛否両論を生み出してしまう。新海誠監督はそういうとこも織り込み済でこの作品を世に出したのではないかと思う。

ただ、勿論賛同の方が多いと踏んだのだろう。主人公のエゴを受容出来てしまう人。愛してる人といられればそれで良い。世界がどうなろうとどうでも良い。そんな風に思える人が多いと踏んだのだからこの物語を作ったのだろう。これを足掛かりに新海誠監督は現代社会への警鐘を!!!とか言うつもりは毛頭ない。ただ、世の中そういう人は多いだろうとは自分も思う。かくいう自分がそうだ。

急な身の上話で申し訳ないが、自分はゲイとして生まれてこの現代社会を生きている。この現代社会においては男好きである自分は、「天気の子」の主人公たちと同じく社会からの逸脱者だ。けれど、好きな人と一緒にはいられるし、それで良いと思っている。社会のシステムを変えようとも思わないし、最大多数の幸福も別に知ったこっちゃない。だからこそこの物語との親和性が高いのだろう。

 

自分の幸せを考えて過ごせればそれが一番。こういう考えが善か悪かを論じることは難しい。誰もがきっと持っている感情ではあるだろうからだ。変化を恐れ、変化を受け入れる。そんな水のように流れるままで生きることを批判することは誰にも出来ない。

ただ、この映画はそれを観賞した人間に考えさせてくれる不思議な映画だと言うことは出来る。あなたはこの映画を観てどう思っただろうか。ちょっとだけ考えてみるのも悪くないかもしれない。

 

 

最後に作中のセリフで最も好きなセリフを書いて終わろうと思う。このセリフに共感する人は今幸せな人だろう。それは掛け値無しに良いことだろう。今を大事にして欲しい。

 

『神様。お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないで下さい。』

 

 

 

 

 

 

 

天気の子

天気の子

 

 

 

オッケー、冒険者。ちなみに、あんたはカレー好き?

みんな大好きカレー。自分も例に漏れず好きだ。

カレーは味もさることながら、その魅力はその作りやすさにあると最近気づいた。

なにをどうつくってもカレールーが何とか味を調えてくれる。失敗しない料理といえる。失敗しないというと御幣がある。失敗が少ない料理といえるだろう。故に料理初心者の自分でも”作りやすい”料理といえる。

安定感ある美味しさを、黙って煮詰めているだけの簡単クッキングで作り出せてしまう。しかも保存食ときた。すごい。やったぜ。

ただ、安定感があることと、飛びぬけて美味しいのはまた別の話になってくる。

誰が作ってもある程度の美味しさが保障されるということは、誰にも作れない美味しさを作ることはそれなりに難しいということだ。至高のカレーへの道は長く険しいことだろう。

凝ったカレーを作ろうと思うと、クミンやらガラムマサラやらの何語が語源なのかも分からないスパイスを調合して作らねばならない。高級ホテルなんかで出されるハイクラスなカレーはきっとそういうところから作っている。だからこその唯一無二のカレーとなるのだろう。

しかし一般家庭において、そこまでの工夫と労力を以ってカレーを作ることはあまりない。大抵がルーだ。煮込んでルーだ。

 

ところで、

他人の家でカレーを食べたことがあるだろうか。幼い頃にしろ、記憶はあるだろうか。

不思議なことに、同じルーで作っているはずのカレーが家庭によって極端に味が違うのだ。そりゃあバーモントかジャワかこくまろかぐらいの違いはあるにしろここまで違いますかってくらい違う。それなりの数のご家庭のカレーを味わってきたが、そのどれもが味が違ったように思える。

ではなぜ、ルーを入れて待つだけの料理に味の違いが存在するのか。その理由はきっと隠し味だ。

隠し味。カレーの隠し味といったらなにを思い浮かべるであろうか。はちみつ、チョコ、インスタントコーヒー、牛乳、生姜、マヨネーズ、ソースなど最早食材であるならば何でもいいんじゃないだろうかってくらいのものがカレーの隠し味として認められている。

各家庭ごとにどこからか持ってきた知識にしろ、独特な隠し味が存在し、それ故にカレーの多様性が生まれている。

誰が作ってもある程度美味しく作れるという土壌、カレーそのものの懐の深さがあるからこその多様性だろう。

 

ネットサーフィンをしながらカレーの隠し味を調べていると、隠し味のオンパレードみたいなレシピが存在する。

このレシピを美味しいと仮定する。隠し味のオンパレードの結果で美味しくなっているとして、どの隠し味がどのように起因して美味しくなっているかが判然としない。味の足し算のしすぎで、どれがそのカレーのクリティカルな味となっているかを見極めることをすごく難しいものにしている。

煩雑になったカレー隠し味業界。ここにいざ新規参入としてカレー作りにチャレンジしようとすると、一体全体なにを入れればいいか分からない。

基本のルーを定めて、一つずつ足し引きしていく対照実験を行えばいいのだろうが、そんなにカレーを食べていられない。

最先端の味検査マシーンとかを使えば、どの隠し味がどのように作用してて、なんてのは分かるんだろうが、果たしてこの世にカレーの隠し味でそこまでの疑問と情熱を持つ人間がいるかどうか分からない。いたとしても、突きとめたとしても、科学の粋が食卓レベルまでに落ちてくるのは相当に時間がかかるだろう。

更に言えば、個人個人の舌がある。夏がダメだったり、セロリが好きだったりするように、十人十色の味蕾フィルターがある上の隠し味なんてきりがない。

なんでこんなにカレーの話をしているかっていうと、今日の夜ご飯がカレーだったからだ。

本日のカレーは、チーズとウスターソースとはちみつが入っていた。辛口のバーモントカレーをはちみつがうまく中和してそこそこの辛さにおさめてくれていて大変美味だった。チーズのコクもしっかり感じられた。ウスターソースはよく分かんなかった。

よってこれは隠し味としてベストじゃないのかもしれない。ベターでもないかもしれない。自分にとってのベストの隠し味は未だ味の密林の深く先に眠っていることだろう。ここをスタートに、謙虚に味の探検をスタートしていきたい。果てしない味の冒険だ。

カレー作りに詳しい方はあなたの美味しいカレーレシピ是非教えてください。

 

アンパンマン プリちぃビーンズS Plus カレーパンマン

アンパンマン プリちぃビーンズS Plus カレーパンマン

 

 

ダァーリィイー

シャーフィイーという人がいる。

なんとも奇怪な名前である。大学の授業でイスラーム法学者の一人として名前を聞き、スンナ派法学の四人の偉大なイマームの一人とされ…というとこまでは覚えているがそのスンナ派法学がなんだとかイマームの意味とかを全く理解できないまま自分は学府から摘み出されて今に至る。

うわーだりい。ダァーリィイー。っていうギャグが学生時代に流行った。今思うとなにも面白くないが、当時は何故か面白かった。ローカルネタというやつだろう。そういうローカルネタは仲間意識の中で生み出される。トランプの大富豪で(大富豪のトランプではない)ローカルルールが同時多発的に生まれるのも「俺たちだけが知っているルール」というのが心地よいからであろう。

シャーフィイーという知る人ぞ知る奇怪な名前がこのローカルネタを流行らせた要因だろう。エジソンとかアインシュタインとか小学生でも脳に叩き込まれていて広く一般認知されている名前を捩ったのであるならば恐らく大すべりもいいとこだろう。ダァーリィイーというネタも決して完成度の高いネタではないが、そうそう机上に挙がる名前ではないからこそ、その知ってる感、連帯感が妙な作用を生むのだろう。斯くも恐ろしきローカルネタ。

今日はとても体がだるい。2年前ならダァーリィイーと言って通じる仲間がいたものだが、今や彼らも日本各地で己の職務に邁進していることだろう。体のだるさに同窓を連想したそんな一日。

 

 

いつも同じ空の下で (MIRA文庫)

いつも同じ空の下で (MIRA文庫)

 

 

 

男はいつまでたっても中二病。

中二病というものをご存知だろうか。

思春期特有の万能感により、思想・行動・価値観が過剰に発現した病態のことを指す。

中二病の名の通り、中学2年生(14歳前後)で発病することが多い。そして多くは年齢を重ねることで自然治癒していく。しかし、稀に慢性化・重篤化し、社会生活を送る上での障害になることもある恐ろしい病気だ。

この手の病気は、男の子ならだれしも起こるものだと考えている。しかし、その病態は様々だ。それまで真面目だったのに急に悪ぶってみたりとか、いわゆる孤高を気取ってみたり、急にサブカル系の趣味に目覚め洋楽を聴いてみたりたりと、表面に出る症状はそれぞれの個性があると言って良い。

それは個々人が思春期に影響を受けたものによって千変万化する。いわゆる憧れが男の子の青春を作り出すのだ。

 

自分も勿論この病気に罹った。いや、今もそれは継続中だろう。そして、自分が思春期に大いに影響を受けたもの。それはやはり明確に一つある。

BUMP OF CHICKENである。

 

omochi0721.hatenablog.com

 

以前に彼らの今についてちょろっと記事を書いた。これを読んでくれたら分かるが、藤原基夫のささくれだった感性に自分の中二病は共鳴していた。

あのオーイエーアハーンの中から自分は最高のメッセージを藤原基夫から感じ取っていたのである。

そして自分の当時の価値観に最高に影響を与えた歌が一曲ある。

5thアルバム『orbital period』8曲目に収録されている「時空かくれんぼ」という歌である。

とにかく歌詞を一部貼るので見て欲しい。感じ取って欲しい。昔の中二病の感性で。

 

安心すると不安になるね 例えば 今

だから今を未来の外れに 置いて忘れよう

そう思った過去 繰り返した 今

温かいものは 冷めるから それが怖くて 触れられない

貰わなければ 無くす事もない

もういいかい過去 まぁだだよ今 

隠れる場所はどこであろうと 常に世界の中心だから

すぐに見つかってオニにされるよ ずっと探す側のかくれんぼ

君に会わなきゃよかった 何も言わなきゃよかった

輝くものは照らすから それが怖くて近寄れない

見つめなければ 見られたりしない

泣かなかった過去 泣きそうな今

絶望すると楽になるね 例えば今

だから今を未来の果てまで 傘代わりにして

逃げてきた過去 捕まった今

 

お分かり頂けただろうか。そう、この歌詞はある論法を濫用することで成り立っている。それはいわば「戦わなければ負けない」理論である。

貰わなければ無くす事もない

見つめなければ見られたりしない

この二つの歌詞はそれがよく現れている。言葉の端々を取ってなんとなく理解させられる良い歌詞である。

始まらなければ終わらないし、生まれなければ死なない。極端に言えばこういうことだ。究極のネガティブでありながらも、しかし負けていない。死なないし終わらない。

この理論に、思春期ど真ん中の自分は最高に感化された。これぞ哲学だと、後の先をとってこそのフィロソフィーがあると納得していた。

この理論をそのままに受け取ってしまった自分。そりゃあなんとも斜に構えた少年に出来上がってしまった。

しかし、藤原基夫が伝えたかったのはこんなことじゃないだろう。おい少年、おまえは藤原基夫の事を、BUMP OF CHICKENのことをなんにも分かってないんだぜ?昔の自分に伝えてやりたい。

その証拠にこの歌の締めくくりはこうなっている。

 

隠れる場所はいつであろうと 僕の心の中だったけど

君を見つけて君に隠すよ ずっと探さなくてもいいかくれんぼ

君も怖いなら僕に隠れて どこも探さなくていいここにあるよ

すぐに行けるよ なぜなら僕は君の心のなかでかくれんぼ

君に会わなきゃ 今すぐ会いに行かなきゃ

急いで行かなきゃ もう一度ちゃんと言わなきゃ

 

「戦わなければ負けない」ことよりも「だれかと戦う」ことに結末を置いている。そうそう、こういうことなんだよ。藤原基夫とはこういう男なのだ。中2の自分に伝えてやりたい。

負けないために戦わないでおく。知らないでおくために興味を持たないでおく。でもそれは負けることや無知なことより愚かなことだ。なにもしないから負を知らないのでは、何も語れない。だからせめて、誰かと一緒に戦おう。

拡大解釈が過ぎる気もするが、この歌の本質はこういうことだろう。

 

いつのまにか歌詞解釈ブログみたいになっているが、要はなんでもやってみようってことだ。前にこんなブログを書いている。深夜のテンションで書き出したブログだった気がする。

omochi0721.hatenablog.com

やってみよう。どうやらここ数年でBUMPからWANIMAに価値観が変わったようだ。

 

 

なんか色々書きすぎて本来の着地点がなんだか忘れてしまった。今回の結末は着地はさせない。オチなんてありません。それぞれの感性に任せていきたい。

 

 

orbital period

orbital period

 

 

GAP in the NightClub.

過日、朝早く出勤している時の事だ。横断歩道で赤信号を待っていたらキャバクラ出勤帰りのお姉さんを見かけた。露出の多い服にキメキメの髪。絵に描いたようなキャバクラのお姉さんである。

 

キャバクラのお姉さんというか水商売で働く人は凄いと思う。水商売で働く人たちはその働く空間においては女優又は俳優になりきらねばならない。おっさんのお金を夢に変えなければならない。一人の人間としてではなく、水商売に従事する人間として。ある程度の作法と少なからずの個性。それらを両立しながら夢を見させなきゃいけない。露出の多い服を着ていたとしても、人間性の露出は抑えなければいけない。夢の為に演じる事をしなきゃいけないのだ。

 

そんな事を考えていると信号は青信号に変わりキャバクラ帰りのお姉さんは歩き出す。

ふいに足元を見る。そこにはニューバランスのスニーカー。

その瞬間、自分はドキリとした。顔やフェロモンに惚れたのではない。その人間味の露出に惚れたのだ。

きっとヒールが辛かったのだろう。サラリーマンがネクタイを外すが如く、彼女もヒールを脱いでニューバランスに履き替えたのだろう。演じ終えた女優の素顔を見た。すっぴんのニューバランス。かかとのくたびれ方からして結構履きこんでいると見える。

 

自分はこういう公から少し私がはみ出す瞬間がたまらなく好きだ。厳しかった上司が飲み会の席で砕けた時のような、学校の先生を休日の飲食店で見かけた時のような。この普段とは違うギャップっていうものが愛おしくてたまらない。

こういうのをギャップ萌えというのだろう。普段の一面と意外な一面の差が大きければ大きいほど相手に強い印象を与えれる。

その人に多面性があればあるほどそれはその人の魅力に繋がる。

多面性ある人間になっていきたいですね。水商売の方から学ぶことは多いなと感じた朝であった。

 

 

 

 

怒りコントロール略してイカコン

格闘技をやっている人間は人を殴ってはいけない。とよく言う。昔は確かに。と思っていた。強い力を持っている人間の陶酔が見て取れるこの言葉に少なからず共感したからだ。しかし今になって思うといや、格闘技やっていようとやってなかろうと人は殴っちゃだめでしょ。という結論になる。強い力だろうと弱い力だろうと自分の中の感情を処理できずに外に当たる行為は何においても最低だ。

 

自分は昔から体が大きかった。小学生にして身長170cm。体重75kg。完全にモンスターチャイルドである。それに加えて5歳から柔道をしていたために子ども特有のちょっとした癇癪も同じ子どもに向けられたらそれはただの暴力の嵐となってしまう。

故に母親には絶対に手を出すなと、なにか憤りを感じても言葉で伝えなさい、そう教えられた。大人になった今でも上手く言葉を伝えられないのに、子どもの自分にそれが出来るはずもなかった。それで結局手が出て何度怒られたことか。しかし、抱いた感情がどういうものか分別するということは覚えた。

辛い気持ちを抱いた対価として自分はどんな感情を抱いているのか、それをどう自分の中で落とし込むべきなのかは実践的に備わっていったように思う。

 

感情が溢れるときってのは、大体が自分の中の感情が処理できなくなったときだ。悲しみすぎてその悲しみをどうしたらいいか、イライラしすぎてそのイライラをどこにぶつけるべきか分からなくなる。

分からないってのは経験がないからだ。未知のもののコントロールは難しい。けど、自分の感じたものはどんな感情か、どう処理すべきかを覚えていけばその処理が出来るようになる。自分は体が大きかったことでそれに早くから気づけるチャンスを得たと感謝している。

そして、感情の爆発ってのは人を動かすほどの力を持つ重要なものだと思う。大喜びは幸せを分けるし、大泣きは悲しみを分ける。

からして、慎重に行わなければならないだろう。しかし、人を不愉快にさせる怒りの爆発をいけしゃあしゃあと行ってしまう人は世の中に多くいる。よくないなぁ、と思う。自分の感情をコントロールできないのは何よりも恥ずべきことで、それを外に出してしまうのはやはり最低だ。

 

感情を素直に表に出すことは嘘や偽りがなくて素晴らしいことだという話もある。それも一理はある。怒りや不満を抑えるために、自分に嘘をついて宥めなきゃいけない時もきっとある。

結局、何を美徳とするかはどこに考えの軸足を置くかで千差万別だ。価値観なんて軸足一つで高尚にも卑近にも変わる。けれど、やっぱり人に当たることはしたくないなぁと思う。何を考えているか分からないとか言われようとも、自分の感情を自分の中で落としこめる人間でありたい。

きっと母もそう望んでいるだろう。

 

 

怒り

怒り

 

 

 

だから僕は精一杯生きて花になろう

人ってのはどうやら自然に触れるとストレスが軽減されるらしい。

自分にそんな心持ちは一切無いけども、どうやら一般的にはそういうことが言われているみたいだ。だから花を植えましょう。

 

花を植えてきた。街角の植栽活動だ。環境美化、治安維持、CSR活動だかなんだか色々な要素が複合的に絡まりあった結果、大の大人が数十人で自分の仕事も放り出して、街の花壇をせっせと掘り起こし、雑草を抜き、花を植えることとなったわけだ。

この資本主義社会の日本。皆が皆、せかせかと働いているのに街角の花壇に目をやることがどれだけあるだろうか。きっとほとんど無いだろう。特に都会民。ない。ないだろう。

そう考えると花ってなんなのだろうか。この花たちの存在意義とは。花を植えながらそんなことを考えてみた。

 

そもそも、花ってのは種を残すために存在している。良い匂いを出して、虫を引き寄せ花粉を纏わせる。そして次の花に向かった虫たちが雌しべに花粉をくっつかせる。これでめでたく受粉。中学の理科知識程度だが、花の意義ってのは確かそんな感じだ。

つまり花ってのは種を残すための装置なのだ。人間がそれを見て癒されるだかなんだか言う花も植物の種の保存の手段に過ぎない。

 

こうやって考えれば人間も一緒だ。人間も自然の一部であり、どうせ生きとし生けるものは種を残すことが目的だ、とかがDNAに刻まれている。種を残す事をしないゲイであってもそのDNAに従ってムラムラはするくらいだ。

目的は人間も植物も結局のところは一緒だ。なら、人間にとっての花は何か。

 

それは恐らく人生そのものなんじゃないか。そんなことを誰も見やることはないであろう花を植えながら考えついた。

 

恐らく自分達は人生をたっぷり使って花をしている。本来の目的としては種を残す為なのだが、花自体があまりにも面白く、辛いから、花自体に意味を見出して、花をどれだけ綺麗に咲かせることが目的だと考える。

けどきっと人生をもっと大きな視点で見た時にきっとその一人一人の花の綺麗さにあまり意味はないんだろう。結局の目的は種を残すこと。次に繋げること。それがきっと人生における普遍的で最大の喜びとなり得る。花は種を残す為にあるからだ。

じゃあ、種を残す気の無い花に意義はないのかと言われればそれもまた違う。違うと言いたい。

物事は見方一つで大きく変わる。

人生で一生懸命になったって、どうせ花だが、されど花だ。咲かせる花がラフレシアかもしれない、バラかもしれない。蝶を呼ぶ花かも、ハエをを呼ぶ花かも。どんな花だろうと一生懸命に咲いてる花は美しい。人はきっとその一生懸命さに心惹かれる。

 

どうとでも取れる話ではある。人生必死に生きてもそれはただの手段だと言えばそれも真だし、精一杯咲いた花は綺麗だというのも真。

人生は花である。ならばどう咲くか。何を残すか。人それぞれ考えて人それぞれの花を、ひとまず咲くだけ咲かせていきましょう。

 

 

花