OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

僕おっぱい大好き わーい

我々はそれのおかげで育ってきた。乳児のころは、それがないと泣きじゃくりそれの代替品としておしゃぶりを口にしていた。現代の人間にとって片時も離せないものの一つにスマホがある。大人がスマホを片手に持ち続けるように、乳児はそれを口にくわえ続けて生きてきた。

人間を生物学上の分類に分けると、哺乳類となる。乳を、哺む。ちちを、はぐぐむ。そう、産まれ落ちた時から我々は、おっぱいを求める宿命を背負わされている。ネズミも、サルも、クジラも、コウモリでさえ。人間が知恵を授かったのは、生物としての最先端に君臨しているからであるが、その知恵が感情を生み、恥を生んだ。そして、徐々に徐々に自分たちがおっぱいを求めることを隠していった。

道行く人々を見回してみるといい。談笑、スマホ、本、音楽。ありとあらゆる知恵の結晶物によっておっぱいを求めていることを巧みに隠している。また、誰一人としておっぱいを求めていた過去を滲み出しているものはいない。あれほど求めていたのに、成長した今や何食わぬ顔で飄々と粛々と日々を過ごしている。これを愚かとする意見もあるが、自分はそうは思わない。限りなく美しいと感じる。上品だ。

しかし、そういった日々の中で不意におっぱいに遭遇することがある。当然のことながら我々は狼狽する。あるものは笑い、あるものは目を背けるだろう。服を着ない部族の人間がおっぱいを目にした時、彼らはどうあるだろう。当然、狼狽などしようはずがない。なぜならそれが日常だからだ。しかし急進的に発展し知恵の結晶物に塗れた我々は違う。知恵の結晶物であるスマホは撫でられても、おっぱいは撫でられない。撫でようものなら鉄拳が飛ぶ。公僕にしょっぴかれる。反省を強いられてしまう。やはりおっぱいは発展した文化を持った我々、原初から遠く離れてしまった我々にはひどく特別な存在となっている。求めすぎるが余りに隠し、不用意に暴くものを責める。文化に深く根差すほど、DNAに刻まれた衝動とは離れおっぱいはトラウマのイコンと化す。因果なものであろう。

これを仕方ないとするか、許すべからずとするかは各々の判断に任せよう。ただ筆者は、ここに問題提起をするのみに留めておく。これが未来ある若者の目に触れないことを望みながら。

おっぱい

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