OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

僕が食器を洗うまでの物語

食器を洗わなければいけない。食事を済ましてからおよそ30分が経とうとしている。今日は、しょうが焼きを食べた。フライパン等の調理器具は調理中に洗ったことにより、多少の負担の軽減には成功している。食事を済ませた後、食器をシンクに置いたところまでは良かった。しかし、そこで食器を置いたまま居間に戻りパソコンに向かってしまった。これが失策。立ち上がる気力は今や塵ほど残っていない。パソコンにむかってイソイソとこのブログを書いている始末である。次に立ち上がった時、奴らを片付けねばならない。その事実が心に黒い点を落とし、立ち上がることを拒み続けている。

そもそもだ。そもそも食器はほんとに存在しているのだろうか。さっきしょうが焼きを食べたのは確かに自分だ。しかし、その食器はいまやシンクに置かれ自分の目では観測できない。例えば、人が訪れない秘境の山において一本の木が折れたとする。しかし、その折れた木は誰にも事実を確認されない。ならばそれは本当に折れたといえるのだろうか。誰にも確認できない事象が確かに起こったと誰が確信を持って言えるだろうか。

今回の食器にしても同じだ。果たして、扉一枚隔てた先にある食器は本当に存在するのか。一人暮らしである我が家で自分がその存在を観測出来なかったのならば、その食器は果たして存在しているのだろうか。我思う故に我あり。虚構だらけの世の中である。

詭弁であろう。分かっている。分かっちゃいる。自分は確かにしょうが焼きを作り食べた。しょうが焼きを食べたっていう自分は確かだ。そこは否定できない。ものを食べたらゴミが出る。これは自分が生きている世界の摂理だ。そう経験的に知っている。だから、この扉の向こうのシンクには高確率で食器が置いてあるんだろう。ちくしょうめ。たまったもんじゃない。目視すら存在を確立させないと言ったのはデカルトだが、目視すらしていない食器は超高確率で存在しているという。

自分の思考以外全て疑う方法的懐疑を唱えたデカルトは、果たして自分の食器を洗ったのだろうか。洗い物すら虚構だと言い張ったのだろうか。虚勢を張り続けたのだろうか。詭弁の論理の刃をブンブン振り回して快刀乱麻するデカルトの横でお手伝いさんが粛々と食器を洗っていたのだろうか。それではダメダメであろう。頭でっかち、正に頭デカルト

まぁ、いいか。とりあえず洗おう。詭弁を振り回しているだけではダメだ。とりあえず動くことでしか状況は動かないかもしれない。デカルトがそう教えてくれた気がした。

 

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