歩けよ少年、世界を回せ。
大学時代、途轍もなく暇な日が多くあった。よくいる文系大学生だったために必要単位を取り終えるとそれ以外で学校に行く用事も特になく、3年生の後期と4年生の一年間で大学に赴いたのはほんとに数えるほどだ。
そんな暇な日々の中でもバイトなり遊びなり趣味なりでそこそこ時間をうまく使っていたように思うが、それでもほんとに暇な隙間は出てくる。
本も全て読み終え次に読みたい本も特に見つからない。Youtubeなんかで動画を漁るもどれも見たようなものばかり。身体を動かそうと思っても、そこまで激しい運動はしたくない。なにをしよう…...歩くか。
そんな感じで、どうしようもなく暇な日はふらっと近くの散歩をしていた。歩くのが趣味かと言われたらそうでもない。限りなく優先度が低い行動なので、趣味と言われるほどの自負もない。しかし、なんとなく歩くのは好きだった。
幼稚園の頃、2キロくらいある通学路を祖父と共によく歩いた。4歳児にとっての2キロは恋人たちのディスタンスに匹敵するヘビーな距離だが、嫌がらず歩いていたそうだ。
そういう過去もあってか、長い距離を歩くことに抵抗感もなくどちらかと言うと歩くのは好きなほうだ。
自分が散歩を好きな理由は二つある。
まず一つは歩いている時の謎の多幸感だ。
晴れている時は、気に入っている歌でも口ずさみながら、さながらPVのように街を闊歩する。すると、さも自分が物語の主人公になったかのような気分になれる。雨の日は雨の日で、傘を差しながらもちょっと雨に降られてみるとこれまた映画の主人公のような気分を味わえる。陶酔を味わえる。それが多幸感に繋がる。
なんともおめでたい頭をしていると自分でも感心するが、なんとなく楽しいのだから仕方がない。
二つ目は歩いていると考えが捗るからだ。一人で機械的に歩いていると、頭の中の有象無象が収斂されていくような感覚を味わえる。足を前に踏み出すだけという単純作業の繰り返しでそれが機械化できた瞬間から、頭の容量は空き、その部分が思索に回りだす。
身体が暇故に歩き回り、それによって頭を暇にさせる。頭を暇にさせると周辺視野に目が行きだす。
掃除をしているのに卒業アルバムとか見ちゃうように、洗い物をしなくちゃいけないのにブログを書いちゃうように、彼氏がいるのに浮気をするように。周辺視野ってのは魅力的なものを映しやすい。
歩いている時に考える思索ってのはそれこそ魅力的なものが多い。あんなことしたいな、こんなことしたいな、巡り巡る希望的観測は目の前を明るく照らす。頭の中のモヤモヤも歩き、考えることで晴れていく気がする。纏まっていく気がする。だから歩いていることは楽しいと感じるのかもしれない。
日本では松尾芭蕉に伊能忠敬。世界ではアリストテレスにプラトン。歩みを進める間に日本を、世界を動かしちゃうようなスペシャルな考えを思いついた先人たちだ。
彼らに倣うならば歩くことってのは世界を動かすほどの特別な行動なのかもしれない。ならば暇な時にそれが出来ていた自分はなんと幸せなことだろう。そして多忙によってそれが出来ていない現状は嘆くべきことなのかもしれない。
最近歩いてなかったし、歩いてみますか。寒いけど。
世界、動かしてみちゃいますか。寒いけど。
そんなことを思ったクリスマス近くの夕暮れであった。