話せることはいつも本音の少し手前
人は物質的にも精神的にも満足している場合、それ以上なにを望むのだろうか。
自分の場合、なにも望まないだろう。充足した日々があるのならば、ゲームのような非現実に没頭する必要もなくなるしtwitterやブログに日本語を駆使して自分を切り売りしなくてもいい。
皆、twitterで文字や文章を吐き出してはいるがそれはきっと消費するというより、心のデコボコを埋めているんだろうと思う。一種の精神衛生を保つツールとしてtwitterは優秀だ。それがどんな形であれ。
自分のブログも同じようなものだ。日々の出来事に名前をつけて分類し、文字にして吐き出すことによってデフォルメして生々しさを抜きカジュアルな文章にして記録する。日々を忘れえぬものにしようという思いと共に、日々から少し離れて現実を薄めてつつ見つめなおす。そんな目的でブログを書いていたりもする。
旧友と会ったとき弾む話題の多くは、辛い記憶だったりする。苛烈な説教や辛い練習。もう2度とやりたくない記憶ほど、そこから時間が経ったとき面白い話題となる。時間が解決してくれる、こんな文句はよく聞く。やはり時間というのは、辛い事実のデフォルメの最も手軽な手段の一つなのだろう。
文章にする行為もまた事実のデフォルメに一役買ってくれる。しかもこれは時間の力を借りなくていい。
辛い事実をどれだけ面白おかしく綴れるか。どれだけ即した表現を用いることができるか。感情をお題に大喜利をしているようなものだ。それで昇華できてしまう人はできてしまう。
気づいたら千文字をこえているような筆の進む記事の裏側で自分は泣き、苦しんでいる。こいつ、今日はやけに饒舌だななんて思ったら、それはきっと何かに苦しんでいる合図かもしれない。自分がそう思うもんなんだから他の人に対してもそう思うようにしている。
でも、しかし、それでも、本当に辛いことは文章に書けなかったりする。
「話したい事は 山程あるけど なかなか言葉になっちゃくれないよ
話せたとしても 伝えられるのは いつでも 本音の少し手前」
BUMP OF CHICKEN「ベル」の歌詞だ。
全く同意する。本音の少し手前をどんなに面白おかしくしても、少し踏み込むと剥き出しの辛いがあるだけである。大切なところはきっと昇華できずにただ転がるだけなのだろう。
自分のだけではなく他人の本音の少し手前にも敏感でいたい。傷つけないように、見過ごさぬように。
みんな悩んで大きくなるんだなと感じた2月の夜。
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