OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

人依存中毒に御用心

人と喋るのは楽しい。

一般論としてこの大前提はまかり通っている。人と会うことが趣味です、みたいな人も多いんではないだろうか。

宴だらけの日々からぽかっと予定が空くとなぜかちょっと寂しくなる。人と在り続けた結果、人といることに慣れて人といない自分を少し儚く思う。普段、一人の時間がないと嫌々言う自分がそう感じるのだから、これも結構一般的な感性ではないのだろうか。

遊ぶ際には自発的に声をかけていく方だが、それでもやっぱり気心知れた人間と遊ぶことが多い。人と会うために人に会っている。

 

人と会うという行為には2パターンが考えられる。

前述のように人と会うために人に会うパターン。それと何かするために人と会うパターンだ。この二つは人と会うという行為自体は同じだが、その性質は大きく異なる。

 

人と会うために人に会うパターン。これはよくあるようで結構危険と隣り合わせの行為だ。

人と会うために会う。これは目的の人に会い、日ごろの愚痴の捌け口だったり昔話に花を咲かせたりするために会う。やることは色々あろうが、目的は人である。そうすると会話の内容はどんどん排他的になっていく。楽しくなるにつれて内輪の話が多くを占めていくようになる。中毒になる。いつものメンバーが形成されていく。

これ自体は悪いことではない。問題は、その話が対外的に通用しないことだ。Aと言ったらBと返す。さらにCと返す。みたいな条件反射で会話が成立するようになると、会話の漸進性が空転しだす。そういうコミュニティは自分の精神衛生を保つ上で必須のものだが、依存しすぎると対外的な会話が出来なくなり、いざ外のコミュニティに参加した時に困る。平たく言えば会話がつまらなくなる。

 

対して、スポーツでも文化的活動でもなんでもいいが、何かする結果人と会うパターンは人への依存度が少ない。究極言えば、相手は誰でもいいのだ。何かをするというツールがあれば、人の輪は広がり続ける。人に依存せずに人と会える。平たく言えば社交的になる。

 

こんなこと言ってるが別に仲良しこよしグループにファックユー!と中指立てたいわけじゃない。そんな寂しい人間ではない。......ないはずだ。

なんでも依存のしすぎは良くないよということだ。排他的なグループに依存している限り、社交性というのは中々掴めない。特定の人に依存しすぎるばかりでは、いつまでたっても人に慣れない。

じゃあ、常に新しい出会いを求め続けないといけないのかって話かというとこれもそうじゃない。いつものメンバーとの遊びもほんとに重要だ。友は石垣、人は宝だ。気の置けない友との会話はほんとに楽しい。大事にしていきたい。

 

人への依存の極みである宴から立ち返りそんなことを考えた。これからも程よく依存していきたい。