OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

特記事項なし

日記に記すことがない日とはどういうことなんだろうか。

確かに今日を過ごしたはずなのに記すことがないなんてありえるのだろうか。

 

ありえるんです。

 

いつもはさらさらと書いている弊ブログ。よくもそんなに書くことがあるものだと自分で自分を褒めてやる毎日なのだが、今日は特に書きたいことが出てこない。じゃあ、書かなければいいじゃんなんて声が聞こえてきそうだ。ご尤もである。しかし今日はなにか書きたい気分なのだ。好きだけど好きって言えない。そんな思春期乙女の胸中と全く同じ状態なのである。

にしても今日はほんとに特段なにもなかった。いつものように出勤し、いつものように仕事を終えいつものように帰ってきた。日常だ。記すことのない原因の多くはそれが日常であるからだ。

だって日常だもん。特に書くことないじゃん。だって今日みたいな日は過去に何度も過ごしてきたんだから。今更この日常を考え直すのもめんどくさいじゃん。

こうなってしまうところだが、本当にそうだろうか。いや、きっと違う。

 

記すことのない日常があるとすれば、裏を返せば記すことがあった日は特別な日ということになる。

はて、自分達は果たして特別な日ばかりを生きているのだろうか。いや、これもまたきっと違う。

ごまんと転がっている普通の日があるからこそ、特別な日が存在できる。特別なんてのは数ある普通の中から浮かび上がった姿であって普通がなければ存在できない。光があれば闇がある理論と一緒である。

突き詰めると日々のほとんどは普通の日だ。冠婚葬祭や進学進級、就職転職のようにがらっと生活の柄が変わる節目はところどころ存在はするものの、それにも気づけば慣れていき、そのうちまた日記にも載らない日がスタートする。その時感じていたちょっとした感情のデコボコもいつかは忘れていく。

日記に載らない日で構成されていくのが自分達の人生であるならば、特別な日だけを書き留めたところでそれは人生であり、人生ではない。日常を記してこそ、それは嘘偽りないその人の日記となるわけだ。

とかくに最近は記せるツールが増えた。Twitterなんてその急先鋒だ。SNSの類はなんでもない日を記すのにうってつけだろう。クリック一つで消えてしまう儚さと共存はしているが、人の人生を垣間見る機会の多い良い時代だ。じゃあこのブログもそうあるべきだ。人生録を記すつもりで、かつただの日常を記す気軽さでこれからも書いていこうと思う。

序盤で書くことがない書くことがないとか言っていたが、日常をこねくり回すだけで今日もこんな日記ができてしまった。クオリティはさて置き。なにもなかったことをブログに書いてみた、今日はそんな特別で普通な日であった。

 

日常(1) (角川コミックス・エース)

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