OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

人間は恋と革命のために生まれてきた

自由恋愛という言葉があるように人は誰と何処で、どんな恋愛をしようが、誰であろうが干渉はされない。これは我々人類が家制度や血統の保護といった旧時代的な恋愛感を続けてきた中で到達した一つの結論と言える。『細雪』や『ロミオとジュリエット』で描かれているような恋愛悲劇は現代における自由恋愛制度の中では生まれてこないであろう。

ゲイである自分の恋愛もこの自由恋愛の大原則の上で成り立っている。有史以前から繰り返されてきた人類発展の為の恋愛という大前提を覆す圧倒的自由な恋愛を自分はこの自由恋愛蔓延る現代において謳歌させてもらっている。

 

自由、自由とのたまっているが自由恋愛といってもそれなりの制約は伴う。自由の裏には責任が伴う。中学生でも知っている。中学の公民で習うからだ。

自由恋愛に伴う責任とは、一般的に言えば中学生でも知っている婚約制度のことだ。結婚。夫婦。契約関係。国家に対して一定の効力を持つ契約を書面で結ぶことにおいて恋愛関係にある男女は晴れて責任を伴った強い関係で結ばれる。要は国が「あなた達は今恋愛しています!」と公に宣伝してくれるのだ。自由と責任を引換券とした恋愛関係の担保。これには愛し合う二人もにっこりだろう。

 

一方、そんな一般論の盤外で艶事を繰り返す自分たちゲイの恋愛にはそんな恋愛関係の担保は一切存在しない。盤外の自分たちに制度を用意するほど社会が成熟していないのだ。

ならば、自分たちの前に広がる恋愛とはただただ広いだけの自由恋愛の荒野。線引きも整合も本質的には何もないただの荒野だ。唯一あるのは個々人の倫理観のみ。

この自由奔放さを是と捉えるか否と捉えるかは人それぞれであると思うのでここでの明言は避けておく。

そして、その中であってもやはり僕たちは人を愛したい。他とは一線を画したい特別な人がそれぞれいるのではないだろうか。いるだろうか?いなかったら申し訳ない。

では、そんな特別な人を特別たらしめる為に出来ることってのはなんなのだろうか。国家も社会も自分たちの恋愛を担保してくれる存在ではない。お互いの責任を持ち合う関係を形成する為に必要なものとは?指針もないだだっ広い荒野の真ん中で自分達は何を築けばいいのだろうか?皆さんはどう考えるだろうか。

 

ここには人生経験まだ23年といった若輩の自分の考え方を書かせて頂く。

自由恋愛を謳う僕達の恋愛。自由だからこそいくらでもその関係は代替が効いてしまうと思いがちだ。線引きが無いからこそ手離れが良くて次へ次へといってしまいがちだ。

けれど、その自由を引き換えにしてでも相手を自分のものにしたい時、そんな時は結局誠実に相手に尽くすしかないのだと考えている。いつだって相手が何処かに行ってしまえるようなこのベリーハードモードな恋愛ゲームをクリアする為には常に相手の為に努力することが重要だ。むしろ、その方が永遠の愛なんていうものを担保にして甘えるよりずっと健全ではないだろうか。

ベリーハードだからこそ甘えるわけにはいかない。常に相手の事を考えなければいけない。努力を忘れた恋愛が壊れるなんて必定とすら思っている。

 

《人間は恋と革命のために生まれて来たのだ。》

 

これは太宰治の『斜陽』の一節だ。個人的に太宰治作品の中で一番の名フレーズだと思っている。

人間が生きる意味なんてのはそれこそ現代は多様化の一途だ。けれど、その「真」に迫った時にぴったりとハマる言葉はこれだろう。

ここでいう太宰治の革命は社会主義(あるいは共産主義)革命の事ではない。政権を変える事でも、社会のシステムを変えることでもない。太宰治の考えた「革命」はそんな旧時代的な革命の捉え方ではなく、なにもかもを変える為の自分に対する自己革命なのだ。自分が変わる事、努力する事が何より大事だと太宰治は説いていると自分は感じる。

 

《この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかつて来ました。

あなたはご存じないでせう。だからいつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますね、女がよい子を産むためです。》

 

これも『斜陽』の一節だ。

世の中の出来事は全て恋、引いては恋を通して明日を繋げる為にあるとも太宰治は言っている。

 

明日を繋げる恋と恋を繋げる自己革命。

広い荒野で明日も君と笑って過ごす為に今日も自己革命を続けたい。

 

 

斜陽

斜陽