痛みを抱えるあなたへのメッセージ
サッカーのプレイにおいてファールがあった時、相手選手と接触した時、大袈裟に倒れて痛みを回りにアピールすることがある。
劇団員と誹られることもあるあの行為だが、選手たちにとってはそこそこメリットがある。痛みをアピールすることには勿論意味があるのだ。
そう、痛みを周囲にアピールすることはとっても大事なことなのである。
乳児は痛みを伝える言葉を持たない故に泣くことでそれを表現する。表現しなければ気づいてもらえず、最悪死に至ることもあるだろう。
生きていて辛いことがあった大人は、身体を動かすことや愚痴を言ったりしてそれをアピールする。痛みをアピールして周りに発散しなければ、こちらも最悪死に至る。
痛がることで痛くなくなる気がする。痛がるという痛みのパフォーマンスを行うことで人は周りと痛みを共有していける。そうすることで人は本当の痛みを乗り超えていくのだ。これこそが痛みのメカニズムなのかもしれない。
ならば、一人の時はどうか。一人の時に痛がることは果たして意味があるのか。だれにも共有されることのない痛み。それは虚空に放つただの独り言であって、意味はないのだろうか。
先ほど、扉を開いた拍子に扉の隙間と床の間に小指を挟んでしまった。確実に小指の爪が剥がれたかと思った。実際は無傷だった。
しかし、あまりの痛さにしばらくうずくまった。猫のように丸くなり、犬のように呻った。
そこで気づいた。これは誰に対して痛がっているのだろう。誰に痛みを示しているのだろう。
痛みが共有することで薄くなっていくのだとしたら、誰にも共有されることのない痛みは時が解決するのを待つしかないのだろうか。
いや、きっと違う。これは自分に示しているんだ。
痛みの激流に悶えながら必死に痛みと向き合っているこの状況。痛みを自分と共有しているんだと気づいた。
クールに振舞おうと思えば出来ただろう。しかしそれをしなかったのは、痛いアピールをすることで自分を鼓舞していたのだ。
痛みのパフォーマンスは周囲と痛みを共有するだけじゃない。自分を痛みの先へと連れて行ってくれる応援なのだ。
だから一人でもきちっと痛がる。自分自身にアピールする。痛いんだ、確かに痛いんだと心と身体に刻み込む。その刻み込んだ痛みが本来の痛みを超えるのだ。メカニズムは痛みと共有する時と一緒だ。
だからどんなに滑稽な姿になろうとも、痛がることを恥ずかしがっちゃいけない。避けてはいけない。本当の痛みを自分の中で抱え込むのはきっと何よりも辛いことだ。
痛みを伝えることで人は助かることができる。そんな簡単なことで、心の、身体の命が助かるのだ。
痛みを抱えるそこのあなた。痛みを抱え込まないでほしい。あなたの痛みはあなただけのものではない。あなたを助けたい誰かのものでもあるのだから。
なんかよく分かんない結末になったが、要は小指の爪が剥がれそうになっただけってことだ。
あー痛い、痛い。