OTNK日記

20代。ゲイ。種々雑多な日記。

昔出会った男に恋愛観を変えられた話。

ハンバートハンバートという男女二人組の歌に「今晩はお月さん」という曲がある。心の傷が癒えない男女の生々しい別れを歌った曲だ。その歌にこんな一節がある。

 

『帰りたくない 今夜だけは

   何もかも忘れて 眠ってしまいたい』

 

そう、何もかも忘れて眠ってしまいたい時がある。

僕たちはどんなに今に力を尽くしたって、過去に囚われてしまう。忘れられない何かがあるから、忘れようと旅に出るし、映画を見る。宴の後の寂しさは、宴の後の日常が覆い被さってくるからこそ感じるものだ。

つまり、何もかも忘れて眠ってしまうなんてことは出来ないからこそ、何もかも忘れて眠ってしまいたいのだ。人は出来る事より出来ない事を願って日々を消費する生き物なのだろう。

 

お盆だ。

それぞれ休みだったり休みじゃなかったりするのだろうか。自分はそこそこのお休みを頂き実家に帰省中だ。

親の手料理を食べたり、昔の学友と大いに笑い語ったり、楽しい帰省の日々を送っている。

 

同窓会と言うわけではないが、高校の同級生15人くらいで集まって飲み会をした。

今や社会人2年目となった自分たち。それぞれがそれぞれ社会に対して様々な形で順応したり、抗ったりしているようだ。

そんな近況報告もそこそこに済ませると、そこは若者同士。話題はやはり恋愛の話に次第にシフトしていった。

プロポーズ、結婚、はたまた出産。そんな男女の恋愛で当然あるべき単語が飛び交う中やがて白羽の矢は自分のもとへ。

 

「荻原(ブログ主)は新しい彼女でも出来たのか?」

 

 

自分には昔、彼女がいた。中学卒業時から付き合った彼女で、大学2年生の冬まで付き合った。

最後の方は腐れ縁のような関係になり、なあなあで付き合っていたと言っても差し支えはなかった。しかしそれでも、当時はそれなりに愛慕の感情はあったように思う。

そんな彼女には自分の方から別れてくれと告げた。理由は「男が好きだから」。

彼女には今となっては申し訳なさしか感じない。中学卒業から大学2年生までの約5年間。青春時代の殆どを自分を彼氏として過ごしてもらった。それなのに自分が彼女へ告げた最後通牒は、結婚のプロポーズでもなんでもなくて「男が好きだから別れて欲しい」。我ながらなんとも酷い男だ。

 

自分がゲイとして活動を始めたのは大学2年生の夏。つまり、自分には「自分がゲイだと自覚していながらも彼女にはそれを告げず関係を維持していた期間」が存在する。

この期間は単に逃げの期間だったと今振り返れば思う。ゲイとして日々を過ごしていながらも自分はまた元の道に戻れる。そんな"非常出口"として彼女という存在自体を心の拠り所にしていた。

 

まだ大丈夫、まだ大丈夫。自分には彼女がいるからまだ大丈夫。

 

そんなゲイにとっても彼女にとっても大いに迷惑なことを自分は半年間ほど続けていた。

そんな最低な考えを変えたのは、ある男との出会いがきっかけだった。

12月の中旬。ある男とリアルをした。そして性欲の勢いに任せて身体を重ねた。

その頃の自分は男との恋愛に対して非常にドライな考えを持っていた。

 

カジュアルな恋愛の方が気楽だから好きだとか、もう大人だしもっとエグみのある恋愛がしてみたいだとか、そんな一般的な恋愛観をゲイとの間柄に持ち込むのは決してしないでおこうと誓っていた。何故なら、自分がゲイとして生きていくつもりは毛頭なかったし、恋愛に付随してくる面倒ごとには巻き込まれたくなかったからだ。

結局、ゲイの恋愛なんて性衝動をぶつけ合うだけのもの。甘酸っぱい恋愛とかはリアルじゃないし、そもそも人間の欲なんてそんなもんだ。

手を繋ぎたいだとか、もう少し一緒にいたいなんていうプラトニックな感情は、「SEXがしたい」っていう性衝動を隠すもっともらしい嘘だと信じて疑わなかった。

「手を繋ごう」と言われればその手を取ってホテルへ向かおうとしたし、SEXの後に「もう少し一緒にいたい」と言われれば自分の身の置き所の無さに居心地の悪さを感じた。

リアルする度にそんな言葉を吐く男の人を見ては、そういう浅ましい取り繕いはやめて「SEXがしたい」とハッキリ言ってくれよ。そっちの方がこっちも楽だ。とすら思った。

そういうプラトニックな感情は自分にとっては回りくどくて、仮にプラトニックな恋愛を求めるとしてもそれは男に向けられるものではないのだ。

 

そんな恋愛観を持っていた自分が出会った男。彼は身体を重ねた後にこう言った。

 

「君はSEXの前と後では態度がまるで違うね。それで傷つく人もきっといる。なにより、その考えはきっと君の大事な人にも伝わってしまうと思う。まぁでも、それでも、今日はありがとう。」

 

味気ないSEXだったんだろうなぁと今になっては思う。それでも、お互い様で傷を舐めあった後にきちんと感謝を述べてくれた。寂しい夜に一緒にいてくれてありがとうと言ってくれた。そしてなにより、虚無の時間に疲弊しても、心の隙間が埋まらなくても、一緒に過ごした時間を大切に思ってくれたのだ。

 

その優しさに心底打ちのめされた。性衝動を消費するだけだった男との出会いに初めて光が差した気がした。

男同士の恋愛を軽く見ていた自分に彼は優しく諭してくれたのだ。「それでは大切なものまで軽くなってしまう。」と。

確かにその通りだった。その証拠に自分はゲイとして活動しながらも彼女との関係を維持し、彼女自身を"非常出口"として軽く見ていた。

だからこそ彼との出会いをきっかけに自分は考えた。自分はなにをしたいのか、なにを大事にしたいのか。

その結果、自分は彼女に別れを告げ、ゲイとして生きていこうと決めたのだ。これが約4年前の出来事だ。

 

同窓会のなんでもない話をきっかけになんだか昔の事を思い出してしまった。

重ねて言うが、彼女には本当に申し訳ないことをした。彼女は寛容で自分が「男が好きだ」と言った後もそれを許して、友達の関係でいてくれている。だからこそ彼女にはもう償いは出来ない。彼女は彼女の人生をもう歩んでいるからだ。

そして、僕がそれに甘えて何もかも忘れてしまうことも出来ない。

過去出来なかった想いで、人間は出来ているからだ。これまでもこれからも。

 

「荻原は新しい彼女でも出来たのか?」

僕は言った。

「付き合ってる人はいるよ。大事にしていこうと思う。」

 

キザ過ぎて学友達からは笑われてしまったけど、まぁそれでもいいだろう。

学友達も元彼女もみんなそれぞれ日本各地で頑張っているようだ。

自分も頑張っていこう。

人より劣る欠陥人間なら考えることなく散れよ

さあ今日も張り切ってブログ書くぞ〜と意気揚々とブログを書き出したのだが、なにかしっくりこない。「メタセコイア」の話をしていたのだが、どうにも納得のいかないものしか書けない。メタセコイアは太古から存在する植物で〜そこまで種を保存する気概が凄い〜それなのに俺というホモは...といういつものめんどくさい論法で1000文字くらい書いたところで、なんだかいつもの感じに辟易して全て消してしまった。消してしまったもんはしょうがないから、今日はいつもと趣向を変えて、砕けた感じで最近感じたことでも書き綴ろうと思います。恐らくネガティブな事ばっか書くと思うけど、まぁ是非見てくんさい。メタセコイアはまたの機会に。

 

・劣等感がヤバイ

最近感じる事と言えば他者に対する劣等感。これがジーマーでヤバイ。特に同世代に対する劣等感ね。あいつはこんな凄いことやってんのに俺という男は...みたいなやつです。

音楽活動している友達がいるんですけど、そいつがそこそこ大きな会場でライブするって言うんで招待されたんですよ。そんでそいつの頑張っている姿を間近に見てたんですけど、「いやーあいつはすげぇなー」っていう気持ちと共になんかちょっと悔しい?みたい気持ちが沸々と湧き上がってきたんですよ。別に自分は音楽活動とか一切やってないのに、ですよ。

なんか最後の方にはその悔しさに似た劣等感に完全に胸中を支配されまして、もう見てらんねえってなってラストのとこは席外しちゃったんです。悪いことしたなーって気持ちと同時に、友を素直に祝福出来ない自分の小ささにも嫌になったんですよね。まぁ、別にそれを誰かにぶつけるわけでもないし、ただ自分の感情の凸凹として時間と共に消化される程度のものなんでどうってことはないんですが、自分ってこんなに他者を羨む人間なんだなーって若干傷つきました。

元々、競争意識とかは低い方だと思ってます。競争意識育まれる学生時代には柔道とかやってましたけど地元では強い方だったんで、そこまで張り合う奴もいなかったんですよね。けど、全国に出たら自分より強い奴は何人かいて、まぁ全国レベルだと俺はこんなもんよな的な諦めが先に出る卑屈な学生だったんで、競争意識もそこまで育まれなかったです。

けど、ここに来て謎の劣等感。しかも全く知らないジャンルで。厄介なことこの上ないです。

大人になってから諦めよりも劣等感が先に出てくるって成長したんだかしてないんだか分かんないですね。皆んなもこういうの感じるもんなんですかね?

 

・人類の母的思考に嫌気が差す

意味分かんないこと言ってるのは百も承知なんで、説明します。

この前、会社の後輩が結構なミスやらかしまして、しかも即日にそのミスのケツ拭かなきゃいけなくてですね。直属の後輩ではなかったので別に関わらなきゃ良かったんですが、流石にそれも酷だと思って仕事手伝ったんですよ。

そこで手伝ってる時にずっと思ってたことがあるんですよ。「間違いなんて皆んなあるよ。それでこそ人間なんだ。それが生きていくってことなんだ。」って。

ふと思い返してみるとかなり気持ち悪い思考だなって思ったんですよ。普通なら「ああ、間違えちゃったんだね。」で済む話を、突然他人も他人の間違いも大袈裟に許容し始めて「自分は人類の母なのだ。」的なスケールのでかいことを言い始める。これ、俺の中ではかなり気持ち悪い思考なんですよ。

一つ前の劣等感にも繋がるんですけど、基本的に自分は他者より劣ってる自覚があって、それは諦めとして毎日淡々と処理してます。けど、そんな自分が急に他者を大仰に許す。自分の中の矛盾で心がギュッってなるんですよ。自己矛盾でストレス抱えるっていう欠陥人間だなって思います。他者より劣るなら劣るで、それでずっと小さく収まってれば?と感じる今日この頃。

 

・エロ動画がキツイ時がある

ホモやってるんですけど、時々ホモのエロ動画がきっつーって思う時あるんです。なんでなんやろうなーってずっと思ってたんですけど、背徳感が薄くなってるだからだと思い至ったんです。

それこそホモ始めた当初はPSPとかにホモエロ動画しこたま入れて通学時に見るほどエロ動画見てたんですけど、今はなんか食傷気味っつーかそんな感じ。

なら昔のそのエロ動画見る意欲はどこから湧いてたかっていうと、背徳感からだなーと考えたわけです。男同士でSEXするっていうその「イケナイコト」感。その背徳感が自分にとっての興奮の源流なんです。

性の世界って基本モノクロだと思うんすよ。特にホモのSEXって性衝動を満たすだけの実に淡白なもの。その他としても愛の確認とかそういう別にSEXじゃなくてよくね?みたいないくらでも代替が効きそうなものなんです。

じゃあ、SEXの旨味っていうか色味っていうかSEXを脚色してより良いものにしてくれるものはなんだって言うと、背徳感なんですよね。背徳感があるだけでリアリティが加速していくんですよ。無味乾燥の性の世界に旨味と色味と奥行きを追加してくれるんです。

だからこそ最近の自分は、ホモSEXってのに慣れてしまってその背徳感が急速に失われつつあるんだと思います。普通のものに成り下がってしまっている。

でも、折角なら楽しみたいですからね。なんか新たな趣向でも加えてみますか、と思う今日この頃。おススメあります?

 

とりあえず今日はここまで。

なんも考えずに書くと筆が進む分、内容が支離滅裂になる気がして怖いとこです。

あんまりネガティブ振りまくのも好きではないですが、まぁそれも堪忍堪忍。たまにはいいっしょ?

賛否両論、天気の子、感想。

このブログには多分に「天気の子」のネタバレを含んでいますので、未視聴の方はご注意下さい。

 

見てきました、天気の子。

 

映画『天気の子』公式サイト

 

自分は新海誠作品は前作「君の名は。」しか見ていない。なので、「天気の子」には「君の名は。」の様なハッピーエンド幸せ展開を期待して観に行ったのだがその期待とは裏腹の、それこそ雨の様に心の中を曇らせる映画だった。しかし、「君の名は。」以上に考えさせられる作品であったので、その感想を適当にここに書いておこうと思う。

 

まず。「天気の子」の作品自体の感想としては自分は面白かったと言える。表面上のエンタメ要素としても鑑賞後の考えさせられる感としても中々のものだったと思う。

しかし、一緒に作品を観に行った彼氏はあんまり面白くなかったという感想を持ったようだ。その理由としては

・主人公達が犯罪ばかりしていて感情移入出来なかった

・東京disりがすごい

・エンディングがよく分かんない

とのことだ。

まぁ確かに、これらの要素は大いにある。これが所謂「君の名は。」との違いとなって、物語を正面から楽しめない要素になっているのだろう。ということで、まずは彼氏の感想からこの物語を考えていく。

 

・主人公達が犯罪ばかりしていて感情移入出来ない

そもそも主人公の帆高くんは家出少年で絶賛捜索届け出され中の全力補導少年だ。更には物語後半では、帆高くんは警察に追われることになり警察との大捕物を繰り広げる歴とした犯罪者に成長を遂げる。

ヒロインの陽菜ちゃんもこれまた未成年のみで自活する要保護対象者だ。そして、生活に困って売春行為に手を出しかけたりする。

ここまで書くと完全にアウトローカップルである。そんな彼らは完全に東京という完成された社会の中で逸脱者であり、「天気の子」はそんな逸脱者達の物語と言える。確かに普通の日常を送る我々には感情移入し難い設定であろう。

 

・東京disりがすごい

君の名は。」では田舎の少女、三葉が夢に見る所謂キラキラした東京の姿が描かれていた。しかし今回は全くの裏。ギラギラしたネオン街だったり、未成年を喰いものにする大人、身寄りの無い人を敬遠する人々が描かれている。むしろ意識的に描かれているとすら感じた程に、東京の裏の面が押し出されている。

ただ、それが一様に悪いものとして描かれていた訳では無いように感じた。

帆高くんの家出生活を支えたのはそういう東京のアングラな部分であったし、手を差し伸べたのは怪しい雑誌の編集者である小栗旬(名前忘れた)であったりした。

東京という完成されたシステムの中でつまはじきにされた主人公達を助けてくれるのもまた東京という完成されたシステムの裏側であった。そういう東京という街の二面性を描きたくて、あえて東京disとも取れる描写があったのではないかなと思う。

 

・エンディングがよく分かんない

エンディングの違いが恐らく「君の名は。」との決定的な違いなのだろうと思う。 

ここに来て初めて物語の大筋に触れるが、「天気の子」の大筋は「君の名は。」となんら変わらない。

男の子が数奇な運命の女の子を救う

ただこれだけの話だ。

これだけであるのに「天気の子」と「君の名は。」のエンディングは大きく違うものになっている。

君の名は。」は瀧くんが三葉が死んでしまうという過去を変えて、そして未来で出会う。隕石の衝突で死んでしまったみんなも無事でそれぞれの日常を歩んでいく。そんな最大多数の最大幸福的な救いのある物語だ。

対して「天気の子」では、帆高くんが陽菜ちゃんを助けることは出来た。しかしその救いの代償で人柱を失った東京は雨が降り続け雨の下に沈む。いわば、帆高くんの救いを否定するような終わりだ。1人の女の子を助ける為に最大多数の幸福を犠牲にする。そして主人公はそんな世界の在り方を変えてしまった東京を見て「狂っていてもそれを受け入れていこう」と締めて物語を終える。

1人を救う為に皆んなを犠牲にして、それを受け入れていってしまう。認めて諦めていってしまう。なんてエゴイズム溢れる終わり方なのだろうと思わせること請け合いだ。

君の名は。」にあった鑑賞後の爽やかな気持ちとは正反対のモヤモヤとした、それこそ雨天のような沈んでしまう気持ち。それが「天気の子」のエンディングにはこめられているように感じる。

 

この一連の物語を面白いと捉えるか面白くないと捉えるかは、それこそエンディングの捉え方に左右されると思った。

この映画を彼氏はあんまり面白くないと言った。彼は最大多数の幸福を願い、主人公の世界の在り方を変えてしうようなエゴを受容出来なかったのだろう。まぁいいや、で済ませられるものではないと思ったのだろう。社会システムから逸脱した主人公たちを憂い、東京の裏面を嘆き、主人公のエゴを是としなかった。彼氏がこれまで歩んできた人生の中で積み上げられた価値観に合わなかった。最大多数の幸福を得られなかったのだから、これはバットエンドだと捉えた。だから、あまり面白みを感じれなかった。そういうことだと思う。

対して自分は、この映画を面白いと感じた。それは社会システムから逸脱した主人公たちに共感し、東京の裏面を是認し、主人公のエゴを認容したからだろう。映画の中の彼らのエゴをそれもまた良しと受容出来たからだ。(どちらかと言うと受容出来る方がダメ人間度は高い)まぁ、それでも愛してる人と一緒にいられるのだから良いよね。みたいな適当加減で物語を捉えればこの物語はハッピーエンドになる。だから、面白いと感じる。

 

この物語は解釈次第でその人の人となりとか考え方をはっきりとさせてしまう。賛否両論を生み出してしまう。新海誠監督はそういうとこも織り込み済でこの作品を世に出したのではないかと思う。

ただ、勿論賛同の方が多いと踏んだのだろう。主人公のエゴを受容出来てしまう人。愛してる人といられればそれで良い。世界がどうなろうとどうでも良い。そんな風に思える人が多いと踏んだのだからこの物語を作ったのだろう。これを足掛かりに新海誠監督は現代社会への警鐘を!!!とか言うつもりは毛頭ない。ただ、世の中そういう人は多いだろうとは自分も思う。かくいう自分がそうだ。

急な身の上話で申し訳ないが、自分はゲイとして生まれてこの現代社会を生きている。この現代社会においては男好きである自分は、「天気の子」の主人公たちと同じく社会からの逸脱者だ。けれど、好きな人と一緒にはいられるし、それで良いと思っている。社会のシステムを変えようとも思わないし、最大多数の幸福も別に知ったこっちゃない。だからこそこの物語との親和性が高いのだろう。

 

自分の幸せを考えて過ごせればそれが一番。こういう考えが善か悪かを論じることは難しい。誰もがきっと持っている感情ではあるだろうからだ。変化を恐れ、変化を受け入れる。そんな水のように流れるままで生きることを批判することは誰にも出来ない。

ただ、この映画はそれを観賞した人間に考えさせてくれる不思議な映画だと言うことは出来る。あなたはこの映画を観てどう思っただろうか。ちょっとだけ考えてみるのも悪くないかもしれない。

 

 

最後に作中のセリフで最も好きなセリフを書いて終わろうと思う。このセリフに共感する人は今幸せな人だろう。それは掛け値無しに良いことだろう。今を大事にして欲しい。

 

『神様。お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないで下さい。』

 

 

 

 

 

 

 

天気の子

天気の子

 

 

 

オッケー、冒険者。ちなみに、あんたはカレー好き?

みんな大好きカレー。自分も例に漏れず好きだ。

カレーは味もさることながら、その魅力はその作りやすさにあると最近気づいた。

なにをどうつくってもカレールーが何とか味を調えてくれる。失敗しない料理といえる。失敗しないというと御幣がある。失敗が少ない料理といえるだろう。故に料理初心者の自分でも”作りやすい”料理といえる。

安定感ある美味しさを、黙って煮詰めているだけの簡単クッキングで作り出せてしまう。しかも保存食ときた。すごい。やったぜ。

ただ、安定感があることと、飛びぬけて美味しいのはまた別の話になってくる。

誰が作ってもある程度の美味しさが保障されるということは、誰にも作れない美味しさを作ることはそれなりに難しいということだ。至高のカレーへの道は長く険しいことだろう。

凝ったカレーを作ろうと思うと、クミンやらガラムマサラやらの何語が語源なのかも分からないスパイスを調合して作らねばならない。高級ホテルなんかで出されるハイクラスなカレーはきっとそういうところから作っている。だからこその唯一無二のカレーとなるのだろう。

しかし一般家庭において、そこまでの工夫と労力を以ってカレーを作ることはあまりない。大抵がルーだ。煮込んでルーだ。

 

ところで、

他人の家でカレーを食べたことがあるだろうか。幼い頃にしろ、記憶はあるだろうか。

不思議なことに、同じルーで作っているはずのカレーが家庭によって極端に味が違うのだ。そりゃあバーモントかジャワかこくまろかぐらいの違いはあるにしろここまで違いますかってくらい違う。それなりの数のご家庭のカレーを味わってきたが、そのどれもが味が違ったように思える。

ではなぜ、ルーを入れて待つだけの料理に味の違いが存在するのか。その理由はきっと隠し味だ。

隠し味。カレーの隠し味といったらなにを思い浮かべるであろうか。はちみつ、チョコ、インスタントコーヒー、牛乳、生姜、マヨネーズ、ソースなど最早食材であるならば何でもいいんじゃないだろうかってくらいのものがカレーの隠し味として認められている。

各家庭ごとにどこからか持ってきた知識にしろ、独特な隠し味が存在し、それ故にカレーの多様性が生まれている。

誰が作ってもある程度美味しく作れるという土壌、カレーそのものの懐の深さがあるからこその多様性だろう。

 

ネットサーフィンをしながらカレーの隠し味を調べていると、隠し味のオンパレードみたいなレシピが存在する。

このレシピを美味しいと仮定する。隠し味のオンパレードの結果で美味しくなっているとして、どの隠し味がどのように起因して美味しくなっているかが判然としない。味の足し算のしすぎで、どれがそのカレーのクリティカルな味となっているかを見極めることをすごく難しいものにしている。

煩雑になったカレー隠し味業界。ここにいざ新規参入としてカレー作りにチャレンジしようとすると、一体全体なにを入れればいいか分からない。

基本のルーを定めて、一つずつ足し引きしていく対照実験を行えばいいのだろうが、そんなにカレーを食べていられない。

最先端の味検査マシーンとかを使えば、どの隠し味がどのように作用してて、なんてのは分かるんだろうが、果たしてこの世にカレーの隠し味でそこまでの疑問と情熱を持つ人間がいるかどうか分からない。いたとしても、突きとめたとしても、科学の粋が食卓レベルまでに落ちてくるのは相当に時間がかかるだろう。

更に言えば、個人個人の舌がある。夏がダメだったり、セロリが好きだったりするように、十人十色の味蕾フィルターがある上の隠し味なんてきりがない。

なんでこんなにカレーの話をしているかっていうと、今日の夜ご飯がカレーだったからだ。

本日のカレーは、チーズとウスターソースとはちみつが入っていた。辛口のバーモントカレーをはちみつがうまく中和してそこそこの辛さにおさめてくれていて大変美味だった。チーズのコクもしっかり感じられた。ウスターソースはよく分かんなかった。

よってこれは隠し味としてベストじゃないのかもしれない。ベターでもないかもしれない。自分にとってのベストの隠し味は未だ味の密林の深く先に眠っていることだろう。ここをスタートに、謙虚に味の探検をスタートしていきたい。果てしない味の冒険だ。

カレー作りに詳しい方はあなたの美味しいカレーレシピ是非教えてください。

 

アンパンマン プリちぃビーンズS Plus カレーパンマン

アンパンマン プリちぃビーンズS Plus カレーパンマン

 

 

ダァーリィイー

シャーフィイーという人がいる。

なんとも奇怪な名前である。大学の授業でイスラーム法学者の一人として名前を聞き、スンナ派法学の四人の偉大なイマームの一人とされ…というとこまでは覚えているがそのスンナ派法学がなんだとかイマームの意味とかを全く理解できないまま自分は学府から摘み出されて今に至る。

うわーだりい。ダァーリィイー。っていうギャグが学生時代に流行った。今思うとなにも面白くないが、当時は何故か面白かった。ローカルネタというやつだろう。そういうローカルネタは仲間意識の中で生み出される。トランプの大富豪で(大富豪のトランプではない)ローカルルールが同時多発的に生まれるのも「俺たちだけが知っているルール」というのが心地よいからであろう。

シャーフィイーという知る人ぞ知る奇怪な名前がこのローカルネタを流行らせた要因だろう。エジソンとかアインシュタインとか小学生でも脳に叩き込まれていて広く一般認知されている名前を捩ったのであるならば恐らく大すべりもいいとこだろう。ダァーリィイーというネタも決して完成度の高いネタではないが、そうそう机上に挙がる名前ではないからこそ、その知ってる感、連帯感が妙な作用を生むのだろう。斯くも恐ろしきローカルネタ。

今日はとても体がだるい。2年前ならダァーリィイーと言って通じる仲間がいたものだが、今や彼らも日本各地で己の職務に邁進していることだろう。体のだるさに同窓を連想したそんな一日。

 

 

いつも同じ空の下で (MIRA文庫)

いつも同じ空の下で (MIRA文庫)

 

 

 

男はいつまでたっても中二病。

中二病というものをご存知だろうか。

思春期特有の万能感により、思想・行動・価値観が過剰に発現した病態のことを指す。

中二病の名の通り、中学2年生(14歳前後)で発病することが多い。そして多くは年齢を重ねることで自然治癒していく。しかし、稀に慢性化・重篤化し、社会生活を送る上での障害になることもある恐ろしい病気だ。

この手の病気は、男の子ならだれしも起こるものだと考えている。しかし、その病態は様々だ。それまで真面目だったのに急に悪ぶってみたりとか、いわゆる孤高を気取ってみたり、急にサブカル系の趣味に目覚め洋楽を聴いてみたりたりと、表面に出る症状はそれぞれの個性があると言って良い。

それは個々人が思春期に影響を受けたものによって千変万化する。いわゆる憧れが男の子の青春を作り出すのだ。

 

自分も勿論この病気に罹った。いや、今もそれは継続中だろう。そして、自分が思春期に大いに影響を受けたもの。それはやはり明確に一つある。

BUMP OF CHICKENである。

 

omochi0721.hatenablog.com

 

以前に彼らの今についてちょろっと記事を書いた。これを読んでくれたら分かるが、藤原基夫のささくれだった感性に自分の中二病は共鳴していた。

あのオーイエーアハーンの中から自分は最高のメッセージを藤原基夫から感じ取っていたのである。

そして自分の当時の価値観に最高に影響を与えた歌が一曲ある。

5thアルバム『orbital period』8曲目に収録されている「時空かくれんぼ」という歌である。

とにかく歌詞を一部貼るので見て欲しい。感じ取って欲しい。昔の中二病の感性で。

 

安心すると不安になるね 例えば 今

だから今を未来の外れに 置いて忘れよう

そう思った過去 繰り返した 今

温かいものは 冷めるから それが怖くて 触れられない

貰わなければ 無くす事もない

もういいかい過去 まぁだだよ今 

隠れる場所はどこであろうと 常に世界の中心だから

すぐに見つかってオニにされるよ ずっと探す側のかくれんぼ

君に会わなきゃよかった 何も言わなきゃよかった

輝くものは照らすから それが怖くて近寄れない

見つめなければ 見られたりしない

泣かなかった過去 泣きそうな今

絶望すると楽になるね 例えば今

だから今を未来の果てまで 傘代わりにして

逃げてきた過去 捕まった今

 

お分かり頂けただろうか。そう、この歌詞はある論法を濫用することで成り立っている。それはいわば「戦わなければ負けない」理論である。

貰わなければ無くす事もない

見つめなければ見られたりしない

この二つの歌詞はそれがよく現れている。言葉の端々を取ってなんとなく理解させられる良い歌詞である。

始まらなければ終わらないし、生まれなければ死なない。極端に言えばこういうことだ。究極のネガティブでありながらも、しかし負けていない。死なないし終わらない。

この理論に、思春期ど真ん中の自分は最高に感化された。これぞ哲学だと、後の先をとってこそのフィロソフィーがあると納得していた。

この理論をそのままに受け取ってしまった自分。そりゃあなんとも斜に構えた少年に出来上がってしまった。

しかし、藤原基夫が伝えたかったのはこんなことじゃないだろう。おい少年、おまえは藤原基夫の事を、BUMP OF CHICKENのことをなんにも分かってないんだぜ?昔の自分に伝えてやりたい。

その証拠にこの歌の締めくくりはこうなっている。

 

隠れる場所はいつであろうと 僕の心の中だったけど

君を見つけて君に隠すよ ずっと探さなくてもいいかくれんぼ

君も怖いなら僕に隠れて どこも探さなくていいここにあるよ

すぐに行けるよ なぜなら僕は君の心のなかでかくれんぼ

君に会わなきゃ 今すぐ会いに行かなきゃ

急いで行かなきゃ もう一度ちゃんと言わなきゃ

 

「戦わなければ負けない」ことよりも「だれかと戦う」ことに結末を置いている。そうそう、こういうことなんだよ。藤原基夫とはこういう男なのだ。中2の自分に伝えてやりたい。

負けないために戦わないでおく。知らないでおくために興味を持たないでおく。でもそれは負けることや無知なことより愚かなことだ。なにもしないから負を知らないのでは、何も語れない。だからせめて、誰かと一緒に戦おう。

拡大解釈が過ぎる気もするが、この歌の本質はこういうことだろう。

 

いつのまにか歌詞解釈ブログみたいになっているが、要はなんでもやってみようってことだ。前にこんなブログを書いている。深夜のテンションで書き出したブログだった気がする。

omochi0721.hatenablog.com

やってみよう。どうやらここ数年でBUMPからWANIMAに価値観が変わったようだ。

 

 

なんか色々書きすぎて本来の着地点がなんだか忘れてしまった。今回の結末は着地はさせない。オチなんてありません。それぞれの感性に任せていきたい。

 

 

orbital period

orbital period

 

 

GAP in the NightClub.

過日、朝早く出勤している時の事だ。横断歩道で赤信号を待っていたらキャバクラ出勤帰りのお姉さんを見かけた。露出の多い服にキメキメの髪。絵に描いたようなキャバクラのお姉さんである。

 

キャバクラのお姉さんというか水商売で働く人は凄いと思う。水商売で働く人たちはその働く空間においては女優又は俳優になりきらねばならない。おっさんのお金を夢に変えなければならない。一人の人間としてではなく、水商売に従事する人間として。ある程度の作法と少なからずの個性。それらを両立しながら夢を見させなきゃいけない。露出の多い服を着ていたとしても、人間性の露出は抑えなければいけない。夢の為に演じる事をしなきゃいけないのだ。

 

そんな事を考えていると信号は青信号に変わりキャバクラ帰りのお姉さんは歩き出す。

ふいに足元を見る。そこにはニューバランスのスニーカー。

その瞬間、自分はドキリとした。顔やフェロモンに惚れたのではない。その人間味の露出に惚れたのだ。

きっとヒールが辛かったのだろう。サラリーマンがネクタイを外すが如く、彼女もヒールを脱いでニューバランスに履き替えたのだろう。演じ終えた女優の素顔を見た。すっぴんのニューバランス。かかとのくたびれ方からして結構履きこんでいると見える。

 

自分はこういう公から少し私がはみ出す瞬間がたまらなく好きだ。厳しかった上司が飲み会の席で砕けた時のような、学校の先生を休日の飲食店で見かけた時のような。この普段とは違うギャップっていうものが愛おしくてたまらない。

こういうのをギャップ萌えというのだろう。普段の一面と意外な一面の差が大きければ大きいほど相手に強い印象を与えれる。

その人に多面性があればあるほどそれはその人の魅力に繋がる。

多面性ある人間になっていきたいですね。水商売の方から学ぶことは多いなと感じた朝であった。